第3章

ライラ視点

「ライラ、そんなに急いでどこ行くの?」

 クロエがドア枠にもたれ、もう隠す気もなく笑った。わざとらしく道を塞ぎ、勝ち誇った目でこちらを見下ろしてくる。

 私は段ボール箱を抱えたまま、冷たく言い捨てる。

「どいて」

「ちぇ、冷たっ」クロエは頭の先からつま先まで舐めるように眺めてきた。

「三年だよ? ケイデンと三年も寝て、今さら尻尾巻いて出ていくの? 悔しくないの?」

 指先に力が入る。

「なに、私が何も知らないと思った?」クロエはますます調子づいて笑う。

「放っておかれるのって、きついでしょ? 毎晩ベッドに潜り込めば、愛してもらえるって思ってた? ライラ、ほんっと甘い」

「道、塞いでる」

 私が遮ると、クロエの顔に苛立ちが走った。

「へえ、まだ強がるんだ? じゃあ見せてよ——」

 急に手が伸びてきて、段ボールを奪おうとする。

「持って行けるものなんてある? この店はケイデンの。中身だってケイデンが買ったんでしょ。あんたが持って行く資格あるの?」

 箱が手から滑り落ち、ばさっと床にぶつかった。中身が散らばり、ころころと転がっていく。

 水晶のオルゴールがひとつ、床の上で何度か回って止まった。

「なにこれ?」クロエが素早く拾い上げ、わざと高く掲げて眺める。

「水晶? へえ、結構いい値段しそう——」

「やめて!」

 声が自分でも驚くほど鋭く跳ねた。

「それは……母さんの!」

 母が死ぬ前に、私に残したたった一つの形見。水晶で彫られた白鳥。蓋を開けると、生前の母が録音した子守唄が流れる——はずだった。

「お母さんの?」クロエが笑い、目の奥に黒い色が差す。

「じゃあなおさら見なきゃ。そんな大事なもの、肌身離さず持ち歩いてたんだ——」

「返して!」

 飛びかかる私を、クロエは二歩だけ後ろへ下がってかわし、愉快そうに笑う。

「焦れば焦るほど、やりたくなる——」

 ふっと、指が開いた。

 高い位置からオルゴールが落ちる。

 ガシャ——ッ。

 透き通った破裂音が店内に響いた。

「……あっ、ごめんなさぁい」クロエは口元を押さえるが、目は得意げに笑っている。

「わざとじゃないの……手が滑っちゃった……」

 ……言葉が出なかった。

 水晶の白鳥は粉々になり、透明な破片が床一面に散った。ゼンマイがころんと転がり、血の跡のそばで静かに止まる。

 母の子守唄は、もう二度と鳴らない。

「……てめえ——」

 飛びかかろうとした瞬間。

「ケイデン! 助けて!」

 クロエが甲高く叫び、わざとらしく転んだ。床のガラス片でふくらはぎを擦り、血がにじむ。

「殺される——ケイデン——!」

 ドアが乱暴に押し開けられた。

 駆け込んできたケイデンは、薬局の袋を手にしていた。床に倒れたクロエを見た途端、顔色が変わる。

「ライラ! てめえ、頭おかしくなったのか!?」

 私の肩を乱暴に突き飛ばす。

 不意打ちだった。身体が作業台の角にぶつかり、腰に鈍い激痛が走る。反射的に手をついた掌へ、ガラス片がずぶりと刺さった。熱い血が溢れ、床に落ちる。

「クロエに手ぇ出しやがって……!」ケイデンが怒鳴った。瞳が金色に染まっている。

 歯を食いしばって起き上がる。掌から滴る血が、ぽたぽたと床を汚す。

 けれど彼の視界には、クロエしかいない。私など一度も見ない。

「謝れ!」ケイデンが言い放つ。

「今すぐ。ここで、今!」

「ケイデン……ライラを責めないで……」クロエがふくらはぎを押さえ、しゃくり上げる。

「私が悪いの……お花屋さんやりたいって言ったから……怒らせちゃって……私、彼女のものに触っちゃいけなかった……」

「何だよ、その程度のもんで手を出すのか」ケイデンは床の破片には視線すら落とさず、ただ私を睨みつけた。

「ライラ、お前いつになったら大人になるんだよ!」

 ……その程度。

 彼は、母の形見を「その程度」と呼んだ。

 床いっぱいの水晶片を見つめ、私はふっと笑ってしまった。

「落としたのは、あの子だよ」

「まだ言い訳するのか!」ケイデンが完全にキレた。

「クロエがこんなに怪我してんだぞ! 脚見ろよ!」

「だから、あの子が——」

「もういい!」ケイデンが遮る。

「見損なった、ライラ。お前、ただの我がままだと思ってた。まさかここまで性根が腐ってるとはな!」

 彼はしゃがみ込み、クロエの傷を丁寧に確認する。

「痛いか?」

「……少し……」クロエは彼の胸に寄りかかり、弱々しく言った。

「ケイデン、ライラを責めないで……私が悪いの……」

「もう喋るな」

 ケイデンはクロエを横抱きにして立ち上がった。

 ドアの前で足を止め、振り返る。

「ライラ、てめえ、ちゃんと反省しろ」氷みたいに冷たい目。まるで他人を見るみたいに。

「次にクロエをいじめてるところを見たら、セスのとこに送り返す」

 バタン、と扉が閉まった。

 私はその場に立ち尽くし、床いっぱいの破片と血痕を見下ろした。

 スマホが震える。セスからのメッセージだ。迎えの車が着いた、と。

 しゃがみ込み、傷んでいないほうの手でオルゴールの欠片を拾い集める。白鳥の首は折れ、翼も砕けている。一片一片、震える指で掬い上げた。

 壊れてしまっても、これは母の形見だ。

 段ボール箱を抱え直し、私は振り返らずに店を出た。

 車に乗り込むと、シートにもたれて窓の外を見る。遠ざかっていく街並み。ここで過ごした三年が、滑稽な夢みたいだった。夢の中では愛されていると信じていたのに、目が覚めたら全部嘘だった。

 スマホが、また震えた。

 ケイデンからだ。

【ライラ、気持ちが落ち着かないのは分かる。でもクロエに手を出すのは違う。今回は本当にやりすぎだ】

【今後は加減を覚えろ。あの子はお前が思ってるよりずっと繊細だ。今日みたいなことは二度と見たくない】

【傷が治ったら、必ず本人に会って謝れ。分かったな?】

 画面の数行を見つめ、指が止まったまま長い時間が過ぎた。

 最後まで——悪いのは私だと思っている。

 私は彼の連絡先を削除した。

 車窓の外で、暗影部落の建物が小さくなっていく。

——

 翌日、ライラから返信はない。姿も見せない。

 ケイデンは「まだ拗ねてんのか」と鼻で笑った。

 だが夕方になっても、ライラは連絡してこない。胸の奥に、理由のない不安がじわじわと広がっていく。

「いつまでやる気だよ……」ケイデンは苛立ち、頭をぐしゃっと掻いた。

 そのときスマホが震えた。

【ケイデン先生、スターリング小姐の転学書類を受領いたしました。監護権移転の手続きも完了しております。追加で必要なものはございますか】

 ケイデンは固まった。

 転学? 監護権移転?

 あの日、タトゥー店でライラが差し出した書類——その感触が脳裏に蘇る。

 くそ……!

 ケイデンはすぐにライラへ電話をかけた。

『おかけになった電話は電源が入っていないため——』

 胸の奥がざわつく。もう一度、もう一度。何度かけても電源が入っていない。

 人に探させようとした、その瞬間。

 着信。

 セスだ。

「ケイデン、てめえ、俺の妹をどう面倒見てた!?」受話口から怒号が叩きつけられる。

「手は傷だらけ、腰もでかい痣だ! あいつがいじめられてんのを、見て見ぬふりしてたのか!?」

 ケイデンの心臓が沈む。

「……今、お前のところにいるのか」声が低く落ちる。

「ライラに代われ」

「代わるかよ!」セスはさらに怒鳴った。

「告げ口するような子だと思ってんのか? 俺が迎えをやらせて、あの姿見なかったら、まだお前に騙されてた!」

 ケイデンは眉を寄せる。

「セス、聞け。あの日はあいつが先に——」

「言い訳はいらねえ!」セスが遮った。

「三年だぞ、ケイデン! 妹を託したのに、これが結果か!?」

 セスは深く息を吸う。怒りを押し殺した声が、逆に冷えきっていた。

「まあいい。どうせ、もうお前の管轄じゃねえ」

 そして一言、突き刺すように告げる。

「来週のライラの結婚式に来い。遅れるなよ、てめえ」

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