第4章

 結婚式……?

 ケイデンは画面が真っ黒なままのスマホを握りしめ、頭の中が真っ白になった。

 ライラが結婚する? 三年間、従順で、言うことを聞いて、好きにさせていたあの子が――ほかの男に嫁ぐなんて、あり得るはずがない。

「どうせ、俺を怒らせたいだけだろ」

 ケイデンはスマホをテーブルに放り投げ、鼻で笑った。

「俺が迎えに来るように仕向けてるだけだ」

 そうに決まっている。ライラはそういう性格だ。自分から離れられるはずがない。数日もすれば、泣きながら戻ってきて、許してくれと縋ってくる。

 ケイデンは立ち上がり、車のキーを掴んだ。本人に会って、いったい何のつもりなのか問いただす。

「ケイデン、どこ行くの?」

 寝室からクロエの声がした。バスローブを羽織って出てくる。髪はまだ濡れている。

「ちょっと用事だ」

 ケイデンが適当に返すと、

「待って!」

 クロエが急に笑い、早足で近寄って腕を掴んだ。

「さっき電話してたよね? セス? 何て言ってたの?」

 ケイデンは眉をひそめ、振りほどこうとする。

「別に何も」

「教えてよぉ」

 クロエは甘えるように身を寄せ、瞬きもせずに見つめてくる。

「……ライラって名前、聞こえたんだけど。どうしたの?」

 ケイデンの体が強張った。ぎこちなく言う。

「……あいつが……結婚するって」

「えっ、ほんとに!?」

 クロエは嬉しさのあまり跳ねそうになった。

「最高! ライラ、やっと幸せつかんだのね! ケイデン、盛大にお祝いしなきゃ。贈り物、何がいいかな? あなた、ライラのこと一番知ってるもんね」

 ケイデンは答えず、ただ彼女を見ていた。

「だって、ずっと妹みたいに面倒見てたんでしょ?」

 クロエは甘い笑みのまま、彼をソファに引っ張って座らせる。

「セスが三年間あなたに託してたんだから、今度の結婚式はちゃんと準備しないと。信頼に応えなきゃね」

 妹。

 その二文字が刃みたいに、ケイデンの胸に突き刺さった。

「それに……」

 クロエは不意に彼の肩にもたれ、声を柔らかく、甘くする。

「ライラが結婚するなら、私たちの式もそろそろ準備しない? ケイデン、約束してくれたよね。盛大な結婚式……暗影部落で一番大きいやつ……」

 ケイデンは腕の中のクロエを見下ろし、喉の奥が詰まった。ライラのところへ行きたい衝動が、その言葉に無理やり押し潰される。

「……ああ」

 短く応える。

「する」

 そうだ。自分が娶りたいのはクロエだろう。ライラと過ごした三年なんて、そもそも忌々しい間違いだった。


 三年前。クロエが去った夜、ケイデンは意識が飛ぶまで飲んだ。ソファに倒れ込み、「もうあなたを愛してない」という彼女の声ばかりが頭にこだまし、心臓を生きたまま抉られたようだった。

 ドアがそっと押し開けられる。ライラが入ってきた。手には酔い覚ましのスープ。恐る恐るの声。

「ケイデン……? セスに頼まれて様子を見に来たの……大丈夫?」

 薄暗い光の中、彼女が身を屈めて起こそうとする。その瞬間、酒に滲んだ視界の中で、彼女の輪郭がクロエと重なった。

「クロエ……」

 ケイデンは突然彼女の手を掴み、腕の中へ引きずり込む。

「行くな……頼む、行かないで……」

「ケイデン、私――」

 言い終える前に口を塞がれた。ケイデンは獣みたいにキスを重ね、服を乱暴に引き裂き、ソファに押し倒した。ライラは抵抗し、泣き叫んだ。だが彼には何も届かない。ただ何度も何度も「クロエ」と呼び続けた。

 翌朝。目を覚ますと、ライラの目は腫れ、身体には自分が残した跡が散っていた。言葉にできない罪悪感が、初めて胸を満たす。

「……悪かった」

 きつい言い方などできず、せめて声だけは冷たく整えた。

「……俺たち、もう大人だ。昨夜のことは、なかったことにしろ。お前のせいでセスを失いたくない。……埋め合わせはする」

 だがライラは彼の手を離さなかった。

「ケイデン……一回だけ、チャンスをくれない?」

 息が途切れ途切れで、涙に濡れた声。

「私……あなたが好き……ずっと前から……」

 ケイデンは言葉を失った。セスが言っていた“片想いの相手”――その正体が、自分だったのか。

 拒むべきだった。突き放すべきだった。けれどライラの瞳の中にある期待――琥珀色の目いっぱいに満ちた愛と希望を見て、最後に口から出たのは、

「……セスには言うな」

 それからライラは、彼の秘密の恋人になった。三年間、何ひとつ求めず、泣き喚きもせず、従順なペットみたいに彼の傍にいた。

 いまライラが嫁げば、この秘密は永遠に埋まる。クロエは知らないままでいられる。自分が彼女を待った三年、同じベッドに別の女がいたことを。

 ケイデンは、ふっと息を吐いた。

 なのに――なぜだ。胸の奥が、やけに空っぽだった。


 それから数日で、ケイデンの生活にひびが入り始めた。

 朝起きても、枕元にライラの用意した酔い止めはない。昨夜も明け方まで飲んで、頭が割れそうだ。オフィスでは秘書が出すコーヒーがやけに苦い――以前はライラが淹れていた。夜、家に帰っても、食卓に湯気の立つ料理はない。あるのはクロエが頼んだデリバリーだけ。

「ケイデン、私、料理あんまりできなくて……」

 クロエが申し訳なさそうに笑う。

「シェフ雇う? その方がいいよね」

 ケイデンは、ライラの作っていた食事を思い出した。彼女は一度も文句を言わず、黙って全部整えていた。

「……好きにしろ」

 ため息が漏れる。

 さらに最悪なことに、クロエは寝室を模様替えした。簡素な黒と白と灰色は、甘ったるいピンクに塗り替えられ、レースと人形があちこちに増えた。ライラの痕跡が、少しずつ消されていく。

「ケイデン、見て!」

 クロエは弾む声で言った。

「部屋、全部変えたの! もうすぐ結婚だし、ちゃんと準備しなきゃ。あ、それと、このボロい写真立ても捨てた方が――」

 彼女がベッドサイドのフォトフレームを持ち上げる。ライラが誕生日に贈ったものだった。

「置け」

 ケイデンの声が、急に氷みたいに冷たくなった。

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