第2章 親族
「ナナ……」
男の声が震えていた。だがそれは恐怖のせいじゃない。ただ、興奮で喉が震えているだけ。
「俺は……お前の六番目の兄貴、懐理だ! 覚えてるか?」
「お前が三歳のとき、俺たちとはぐれた。ずっと探してたのに、見つからなかった」
「でも、数日前に政府のデータベースが更新されて……それでようやく辿り着けたんだ」
「ただ、ぬか喜びかもしれないから、他の連中は来なかった。俺だけが来た」
男は息もつかずにまくし立てる。
だが夏川紅蓮は無表情のまま、瞳の奥の警戒だけは一切ほどけなかった。
さっきまで売り飛ばされかけたのだ。ここにいる誰も、簡単には信じない。
「誰が何のために寄越したかは知らないけど……私が手を出す前に消えな」
相手がまだ害意を見せていないうちは、こちらから殺しはしない。
けれど一歩でも踏み込むなら――話は別だ。
男は信じてもらえず、さらに焦れる。
「ナナ、ほんとに俺は兄貴だ! 夏川家は海市のトップ長者で――あの年越しのとき、人が多すぎてお前とはぐれたんだ。みんな必死で探してた!」
夏川紅蓮は男を頭のてっぺんからつま先まで眺めた。
「トップ長者? 三輪車のトップ長者?」
男ははっとして自分を見下ろし、慌てて首を振る。
「違う! 車が途中でぶっ壊れてさ……近くの人に三輪車を借りたんだ。迎えに来るために!」
「本当に夏川家はトップ長者なんだ!」
「うるさい。さっさと消えろ」
男は熱い鉄板の上の蟻みたいにうろたえたが、次の瞬間、何かを思い出したようにポケットを探り、魚の形をした玉佩を取り出した。
「これを見てくれ! 親父が作らせた双魚の玉佩だ。お前が迷子になったとき、首にもう片方を下げてた」
夏川紅蓮はそれを見た途端、視線が鋭く揺れた。
ゆっくりと鎌を下ろす。
自分の首元から取り出した玉佩――確かに、男の玉佩と対になっていた。
男は紅蓮の玉佩を見て、顔をぱっと明るくする。
母に似た顔だけを頼りにしていた確信が、今度は決定打に変わった。
「やっぱり……! お前の玉佩、裏に夏川紅蓮って刻んであるだろ?」
夏川紅蓮は目を細めた。
その刻印はかなり隠してある。高柳月代ですら気づかなかった。
――こいつ……本当に、実の兄なのか?
警戒を半分だけ解き、紅蓮は短く問う。
「車はどこ」
「隣村の入口だ」
「案内して。いい? 変な真似したら――今日が命日になる」
「わ、分かった!」
男は何度も頷き、門口で三輪車によじ登って紅蓮を手招きした。
夏川紅蓮は断ろうとしたが、頭がふわりと揺れた。
一瞬迷い、三輪車の荷台を掴んで身を翻し、ひょいと乗る。
男が目を丸くする。
「ナナ……すげぇ身のこなし……」
「喋るな。行け。そっちの道」
「お、おう……!」
――想像していた「か弱い妹」と、まるで違う。
凛としていて、鮮やかで……目が離せない。
男は息を整え、隣村へ向けて三輪車を漕ぎ出した。
紅蓮が道を指示したおかげで、途中で村人にも会わずに済んだ。
三十分後、隣村に到着。
三輪車の上で紅蓮は自分のツボを押さえ、体内の薬の効きを一時的に抑え込んでいた。
飛び降りた先にあったのは、黒い高級車。海市ナンバー。
前輪が潰れ、車体があからさまに傾いている。
「ナナ、心配すんな。近くのディーラーに電話した。あと二時間もすりゃ――」
言い終える前に、紅蓮はトランクへ回り、スペアタイヤと工具を手際よく取り出した。
「ナナ、何してんだ?」
「修理」
二時間も待てば、面倒が向こうから寄ってくる。
あの村の連中は碌でもない。
「修理できんのか……?」
紅蓮は答えない。
ジャッキで車体を持ち上げ、黙々と作業を進める。
十分もかからず、タイヤは交換されていた。
紅蓮は車輪を軽く蹴って具合を確かめると、そのまま運転席へ乗り込む。
外で呆然と立ち尽くす男に、苛立ちを滲ませて眉をひそめた。
「何突っ立ってんの。乗れ」
「……お、おう!」
男は慌てて助手席へ回り込む。
「ナナ、すげぇな……タイヤ交換までできるなんて。兄貴の俺ですら無理だぞ……」
「それよりさ、さっき鎌持ってたの、何のためだ?」
夏川紅蓮は短く答えた。
「草刈って豚にやる」
六男――夏川懐理の胸が、きゅっと痛んだ。
「ナナ……そんな苦労して……安心しろ、兄貴と帰ればもう――うわぁぁぁっ!!」
言い終える前に、車は矢のように飛び出した。
夏川懐理は悲鳴を上げ、シートにしがみつく。
「うわっ、待て待て! ゆっくり! ナナ、兄貴怖い! 頼むから!」
「うるさい」
耳が痛い。
二度目の悲鳴が上がりかけた瞬間、紅蓮は右手を空け、手刀で首筋を――トン。
世界が、静かになった。
速度はさらに上がり、車線変更を繰り返す。
周囲のクラクションがけたたましく鳴り響いた。
……
一方、離陸前の機内。
高柳月代は不機嫌そうに電話を切ると、江口沢の目隠しを乱暴に引き剥がした。
「厄介なことになった」
江口沢は苛立った顔で目を開く。
「何だよ」
「江口春花たちの家が燃えた。全員焼け死んだって」
江口沢は身を起こした。
「夏川紅蓮は?」
「そりゃあ一緒に焼けたでしょ!」
高柳月代の目に悲しみは欠片もない。あるのは苛立ちだけ。
「あなた、何年も会ってないから知らないんでしょ。あの子、今はね……ほんっとに綺麗で……六十万で売ったのも損したって思うくらいよ!」
「『検品』が済んだら、残りの三十万もらう約束だったのに! 全部パー!」
江口沢はむしろ安堵したように息を吐いた。
「三十万なんてどうでもいい。俺が唯月と結婚したら、三千万だって日常の出費だ」
それに、昔の面黄肌瘦のガキが少し綺麗になったところで、高見唯月に敵うはずもない。
「でも三十万は三十万でしょ……」高柳月代はまだ未練たらたらだ。
江口沢は首を振る。
「だからお前は視野が狭いんだ。生きてたら、俺はずっと不安だった。唯月に夏川紅蓮の存在がバレたら、絶対に揉める」
「死んだなら、唯月は一生知らずに済む」
それを聞いて、高柳月代の胸のつかえも少しだけ取れた。
「……そうね。海市に着いたら、供養くらいは――」
江口沢は眉をひそめる。
「唯月の家はキリスト教だ。そんなのやめろ。人は死ねば終わりだし、供養してもしなくても同じだ」
「それに本来、村長の家に嫁げばいい暮らしできたんだ。死んだのは運が悪かっただけ。俺たちのせいじゃない」
高柳月代は「うん」と返したところで、腹が鳴った。
故郷の焼餅を持ってきたのを思い出し、鞄を漁る。
そのとき、カードが一枚、床へ落ちた。
「落としたぞ」
江口沢が目ざとく言う。
高柳月代は拾い上げ、思い出したように目を細めた。
「あの子が出稼ぎしてから、毎月お金を振り込んできたのよ。銀行まで片道一時間半もかかるのに、現金で送らないの。嫌がらせよ」
「海市に着いたら残高見てやる」
江口沢は露骨に嫌な顔をする。
「十二で学校やめて働きに出た奴が、いくら稼げる? そんなカード、高見家に見られたら格が落ちる。捨てろ」
そう言いながらカードを奪い、ぽいと投げた。
「ちょっと! 捨てないで!」
高柳月代は慌てて拾いに行く。
「塵も積もれば山なのよ! 何年もだもの。毎月二万でも、何百万――」
江口沢はもう相手にせず、再び目隠しをして目を閉じた。
海市に着いたら、唯月の機嫌取りが大変だ。高柳月代を連れてきたことを嫌がっている。
……
一方、夏川紅蓮に気絶させられた男が目を覚ましたとき、車はすでに海市へ入っていた。
