第4章 死にたいのか?
夏川懐理は容赦なく、断縁書を床へ放り投げた。
この義妹が碌でもないと、前から分かっていた。だが家の連中は誰も信じなかった。
――まあ、もういい。
ここまで来たら、わざわざ化けの皮を剥がす必要もない。
「何ぼさっとしてんだ? 出て行きたかったんだろ。さっさと失せろ!」
夏川瑠璃は、怒りのあまり笑ってしまう。
懐理とは昔から反りが合わない。今さら取り繕う理由もない。
瑠璃は腰を折って床の書類を拾い上げ、懐理を深く睨みつけた。
「懐理兄さん。今日のこと、必ず後悔させてあげる」
吐き捨てるように言い、踵を返す。
――その瞬間。
脇に立って、こちらを観察していた夏川紅蓮の存在が視界に入った。
顔を見た途端、瑠璃の眉がきつく寄る。
綺麗だ。
どれほど野暮ったい服を着ていようと、欠片も隠れない美しさ。鋭く、攻撃的で、胸の奥がざわつく。
そしてその目元は――夏川奥様に、あまりにも似ていた。
瑠璃はほとんど反射で悟る。
紅蓮の前へ歩み寄り、上から下まで値踏みするように眺めた。
「あなたが……行方不明だった夏川紅蓮?」
紅蓮は唇の端を持ち上げ、逆に問い返す。
「あなたが、恩知らず?」
「……っ、あんた!」
瑠璃は怒りに任せて手を振り上げ、頬を張ろうとした。
だが腕が振り下ろされるより早く、紅蓮が空中で手首をがしっと掴む。びくりとも動かない。手首に鋭い痛みが走り、瑠璃の喉から息が漏れた。
「くっ――!」
痛みに顔を歪め、瑠璃は叫ぶ。
「クズ! 放しなさい!」
紅蓮は冷えた声で言い放つ。
「口を開けばクズ。品がない。私が本気で怒る前に、自分で消えな」
手を放すと、紅蓮はズボンで指先を拭った。まるで汚れでもついたかのように。
瑠璃は怒りで、また笑う。
「はっ……やっぱりね。あんたたち、本当に一家だわ」
視線を鋭くして続ける。
「田舎から帰ってきたからって、のんびりできると思わないで。夏川家は――もう終わりよ!」
紅蓮は表情一つ変えない。
「終わりかどうかは知らない。でも、3つ数えるまでに消えないなら、あなたが終わる」
瑠璃が再び飛びかかろうとした瞬間、懐理が前へ出た。
「執事! こいつをつまみ出せ!」
「つまみ出さなくて結構。自分で出るわ!」
瑠璃は吐き捨てる。
「この家なんて元から居たくなかった。覚えておきなさい、今日の恨みは必ず返す!」
高見家に行けば、やり返す手はいくらでもある。
懐理が罵声を浴びせようとした、そのときだった。
視界の端で、夏川奥様の身体がふらりと傾き――横へ崩れ落ちる。
「母さん!」
懐理が駆け寄ろうとするより早い。
ひゅっと風を切る気配。黒い影が一陣、前へ。
次に見えたのは、紅蓮が奥様を抱きとめている光景だった。
「ナナ……」
「手伝って。部屋へ運ぶ」
「お、おう……!」
ほどなく奥様は寝室へ運ばれ、寝台へ横たえられる。
紅蓮は奥様の手首を取って、目を伏せたまま脈を診た。
脈は乱れている。激昂で気が逆上した失神だ。
それに、内側がひどく痩せている。長年の病が底に沈んでいる。丁寧に整えなければ、いずれ――この身体は持たない。
懐理は執事に救急車を手配させ、振り返ったところで紅蓮の所作に気づいた。
思わず目を丸くして数歩寄る。
「ナナ……医者なのか?」
紅蓮はさらりと答える。
「昔、村の医者に少し。家に鍼の道具は? 今は鍼が必要」
だが執事は不安そうに口を挟んだ。
「救急車を呼びました。20分ほどで到着します」
紅蓮は淡々と切り捨てる。
「この程度で病院に行っても、酸素を吸わせて検査の紙を山ほど出して、最後に適当な薬で返されるだけ」
懐理は即断した。
「理療室に行け。鍼が残ってるはずだ」
夏川当主が慢性的に背を痛めていたため、家には理療室がある。
執事は渋々従い、道具を探して戻ってきた。
理療師はすでにいなくなっていたが、器具だけは残されていた。
執事が鍼箱を差し出す。
紅蓮は箱を開け、銀針を広げる。消毒を済ませ、奥様の身体の数か所へ、迷いなく打ち込んでいった。
だが――奥様は目を閉じたまま、反応がない。
執事は顔色を変え、こっそり懐理を脇へ引く。
懐理は兄弟の中でも末っ子で、直情型だ。ほかは皆、当主の件で外を走り回っている。ここで勢いに任せて取り返しのつかないことになれば――。
「六男様……」
執事は紅蓮の方へ目をやり、声を落とす。
「お連れになった方は……七小姐で?」
「当たり前だろ。目が母さんにそっくりだ。首の玉佩だって、あのとき母さんが掛けた双魚のだ」
執事は頷いたが、核心へ踏み込む。
「……失礼ながら。田舎で医術など……。救急車も来ますし、万一のことがあっては。病院へ運んだほうが――」
懐理の目が険しくなる。
「ナナが母さんを害するって言いたいのか?」
「いえ! 違います。ただ、ほら……針を打っても奥様が――」
懐理はもう黙っていられず、紅蓮のもとへ歩いた。
「ナナ。母さん、あとどれくらいで目を覚ます?」
「10分」
紅蓮はそう言いながら、銀針をほどよい力で捻る。胸に詰まった気を散らす必要がある。
懐理は頷き、執事へ言った。
「10分待つ。起きなかったら病院だ。先走るな。田舎にだって名医はいる」
紅蓮も執事へ視線を向ける。
「心配しないで。起きます」
執事は引きつった笑みを浮かべた。
「は、はい……」
焦れたように待っていた、そのとき。
階下から救急車のサイレンが近づいてくる。
執事がはっとして言いかけた。
「到着しました! 六男様、先に――」
その言葉を遮るように、寝室の扉がどんっと蹴破られた。
全員が反射的に入口を見る。
濃い眉に鋭い眼差し。右の眉骨に走る傷痕。
男が踏み込んでくる。
「懐理、母さんが――」
だが男――夏川懐斗は、視界の端で見てしまった。
紅蓮が、太い銀針を奥様の頭頂へ打ち込もうとしている瞬間を。
懐斗の目が血走る。
「誰だ! 母さんに何する! 死ね!」
怒号とともに、掌が紅蓮へ振り下ろされた。
