第5章 すごい身のこなし!
来たのは他でもない。夏川家の五男様、武を修める夏川懐斗だった。
夏川懐理は、懐斗が夏川紅蓮に襲いかかろうとした瞬間、慌てて飛び込んで止めに入る。
「懐斗兄さん! やめろ!」
だが夏川懐斗の頭にあるのは、母を害そうとする相手を叩き殺すことだけ。夏川懐理の声など耳に入るはずがなかった。
肩で懐理を乱暴に押しのけると、掌風を回し、今度こそ一直線に夏川紅蓮へ――。
致命の一掌が、紅蓮の後頭部へ落ちる。
そう思った夏川懐理は、もう見ていられず反射的に目をつぶった。
カシャリ。
骨のずれる、嫌な音。
――終わった。
頭蓋が割れたのか。
「ナナ……!」
喉の奥が裂けそうな悲鳴とともに目を開けた夏川懐理は、次の瞬間、凍りついた。
倒れていたのは紅蓮ではない。夏川懐斗のほうだった。
いつの間にか懐斗は、紅蓮に片手で床へねじ伏せられている。身動きひとつ取れず、顔を歪めて呻いていた。
一方、執事は完全に呆然としていた。
懐理には見えなかったが、自分にははっきり見えた。
お嬢様の動きは、目で追える速度ではない。残像が一閃――次の瞬間には攻守が入れ替わり、たった一手で五男様を地面に縫いつけていた。
速い。正確。容赦がない。
武術のことなど分からない執事でさえ理解できる。
お嬢様の腕前は、五男様より上だ。
――そんな馬鹿な。
五男様は古流会の人間だ。そこに入れるのは、少なくとも一人で五人は相手にできる連中だけ。
田舎から来たはずのお嬢様が?
執事が震えるほどの衝撃に固まっている間に、夏川懐理は我に返り、紅蓮のもとへ駆け寄った。
「ナナ、大丈夫か!」
夏川紅蓮は無表情のまま、首を横に振る。
不意打ち程度の腕では、自分に傷ひとつつけられない。
懐斗は右腕の痛みを堪えながら、懐理を睨みつける。
「心配するなら俺だろ! それにナナって誰だ! なんで母さんを害する奴を庇う? お前、頭おかしいのか!」
懐理は紅蓮が無傷だと確認してから、急いで説明した。
「懐斗兄さん、紅蓮だ! 俺たちの妹だ!」
「母さんを害してるんじゃない。針を打って治療してるんだ」
懐斗は固まったように瞬きをし、信じられない顔で振り返る。
だが、その角度から見えるのは、細いのに芯のある紅蓮の腕だけ。
「……お前が、ナナ?」
紅蓮は、相手の身分など最初から察していた。
誤解だと判断し、懐斗を押さえつけていた手をすっと離す。
「……うん」
それだけ言うと踵を返し、何事もなかったかのように夏川奥様の寝台へ戻り、運針を再開した。
まるで、さっきの一幕など存在しなかったかのように。
自由になった懐斗は、ようやく床から起き上がる。
懐理は紅蓮と、顔色の悪い懐斗を見比べて眉を寄せた。
「懐斗兄さん、大丈夫か?」
大丈夫なわけがない。
右腕は外れている。肘から先に力が入らず、少し動かすだけで骨が割れるように痛む。
だが、面子が言わせない。
古流会の人間が、妹にねじ伏せられたなど口にできるはずもない。
――油断しただけだ。そうに決まってる。
懐斗は意地で言い切った。
「……問題ない」
懐理は疑いもせず、ほっと息を吐く。
「ならいい。さっきは危なかったんだぞ。次から気をつけろ!」
懐斗は思わず、紅蓮の背をもう一度見た。
いかにも田舎者の身なり。継ぎ当てだらけの上着。
それなのに、全身から冷えた圧が漂う。視線を向けただけで空気が数度下がったように感じるほど。
記憶の中のナナちゃんは、甘くて柔らかな小さな女の子だった。
だが今、母の枕元にいる女は、鋭利な刃のようで、欠片も重ならない。
「……俺だって、あいつがナナだなんて分かるか」
「なあ懐理。本当に、あれが俺たちの実の妹だって言い切れるのか」
「確認した。間違いない」
玉佩の話も重なり、懐斗の疑いはようやく少しだけ薄れた。
小さく「……そうか」と呟くと、痛みを堪えたまま訊く。
「それで、母さんはなんで急に倒れた」
その話題になった瞬間、夏川懐理の目が険しくなる。
「夏川瑠璃のせいだ」
「瑠璃ちゃんが? 何した」
懐理は歯ぎしりする勢いで吐き捨てた。
「まだ瑠璃ちゃんなんて呼ぶのか」
「俺たちの妹は紅蓮だけだ。夏川瑠璃はもう夏川家と無関係!」
懐斗は眉をひそめ、反射的に懐理を疑う。
瑠璃とは兄妹仲が良かった。
「懐理、お前と瑠璃が昔から合わないのは知ってる」
「だが、そんなことを軽々しく言うな。養子に迎えた日から、瑠璃は俺たちの妹だ」
「……はっ」
懐理は怒りで笑った。
この男は一度思い込んだら、いくら言っても曲がらない。だったら言葉など要らない。
懐理は断絶の書面を投げつける。
「自分で見ろ!」
懐斗は訝しげに受け取り、目を落とす。
次の瞬間、黒い瞳が見開かれた。
「……瑠璃の字だ」
見間違えるはずがない。
白紙黒字で書かれている。夏川瑠璃は今後いっさい夏川家と関係を持たず、養子縁組も解消する、と。
驚きが一瞬で怒りに変わる。
懐斗は無傷の左手で懐理の襟を乱暴に掴み上げた。
「紅蓮が戻ったから、瑠璃を追い出したのか?」
「夏川家が落ちぶれたって、飯の一口くらい食わせられるだろ!」
「瑠璃は俺たちが育てたんだぞ。どうしてそんな真似ができる!」
懐理は白目をむきかけた。
「ここまで来て、まだそれを言うのか!」
懐斗は眉間に皺を刻み、低く唸る。
「訳の分からんことを言うな。瑠璃を連れ戻して謝れ」
「そうしないなら――俺がお前を殴る」
懐理の顔色が一段と険しくなる。
懐斗の手を乱暴に振りほどき、鉄を噛むように言い放った。
「外の人間のために、実の弟に手を上げる気か?」
「夏川瑠璃に何を吹き込まれた。まだ見えないのか!」
そして、懐斗の問いに真正面から答えた。
「母さんがなんで急に倒れたか、知りたいんだろ」
「なら教えてやる」
「その書面は、俺が瑠璃に書かせたんじゃない」
「あいつが俺たちに署名を迫ったんだ」
「家が潰れたから巻き込まれたくない、そう言ってな」
「高見家に嫁ぐのに邪魔になるからって、夏川家と縁を切ったんだ」
「母さんは――それに怒りとショックで気を失った」
