第6章 彼女は農民?
夏川懐斗の頭が、一瞬だけ真っ白になった。
だがすぐに、ぶんぶんと首を振る。
「ありえねぇ! 瑠璃は一番の孝行娘だ。自分から縁を切るなんて、するはずがねぇ」
「……ふ」
小さな笑い声が、ぽつりと落ちた。
笑ったのは、夏川紅蓮だった。
懐斗は不機嫌そうに眉をひそめ、そちらを睨む。
「紅蓮、何がおかしい? まさか……お前が瑠璃を追い出したのか」
紅蓮は、こいつは話が通じないタイプだと見切っていた。
余計な説明をする気も起きない。銀針を操る指先だけが淡々と動く。
本来なら、夏川奥様はもう目を覚ましているはずだった。
けれど身体の底がひどく痩せている。気力も血も足りない。目覚めが遅れるのは当然だ。
だから、もう少しだけ――運針を続ける。
だが懐斗は、その沈黙を肯定と受け取ったらしい。苛立ちを露わにして、ずかずかと近づいた。
「紅蓮、お前がいなかった間、家の孝行は瑠璃が代わりにしてきたんだぞ」
「瑠璃がいなかったら、母さんは当時ほんとに潰れてたかもしれねぇ。なのにどうして追い出す!」
「瑠璃が残ったところで、家のもんはお前の取り分が減るわけじゃねぇだろ」
「何がそこまで――」
どれだけ言い募っても、紅蓮は一度たりとも視線を寄越さない。
針の角度、ひねりの強さ、呼吸の間。目は寝台の奥様だけを追っている。
それが余計に癇に障ったのか、懐斗の声が荒くなる。
「紅蓮、聞いてんのか――」
「懐斗兄さん! いい加減にして!」
夏川懐理が前へ出て、懐斗の腕を乱暴に掴み、ぐいっと引き剥がした。
「さっきから俺が言ってること、全部本当だ。紅蓮はそもそも夏川瑠璃が誰かすら知らねぇ。追い出すも何もあるか!」
「信じねぇなら執事に聞け!」
懐斗は二秒ほど迷い、それから顔を真っ黒にして執事へ視線を投げた。
「半分でも嘘ついたら――ただじゃ済まねぇ。立って入ってきて、横になって出てくことになるぞ」
執事の肩がびくりと震えた。
懐斗が「言ったことはやる」男だと、屋敷の者は皆知っている。
だが執事はすぐに腹を括り、きちんと頭を下げた。
「五男様。六男様のおっしゃる通りでございます。縁切りを切り出されたのは……夏川瑠璃さんご本人でございます」
その言葉に、懐斗の目の硬さがわずかに緩む。
「……本当に、懐理と紅蓮じゃねぇのか」
「違うわ」
かすれた声が、寝台のほうから落ちた。
三人が同時に振り向く。
いつの間にか、夏川奥様が目を開けていた。
片手で紅蓮の手をぎゅっと握り、もう片方で寝台の縁を掴み、懸命に身体を起こそうとしている。
「母さん!」
「母さん、目ぇ覚ました!」
懐理と懐斗が同時に駆け寄る。
だが奥様は二人を見なかった。ただ、紅蓮だけを見つめている。瞳の奥に、薄い涙の膜をたたえて。
「ナナ……? あなたなの……?」
その一言で、堰が切れた。
怒りも悔しさも、全部飲み込んで積もらせてきたものが、一気に溢れ出す。
瑠璃に腹を立てたのは確かだ。
けれど本当に倒れたのは――紅蓮を見たから。たった一目で、確信したのだ。自分の子だ、と。血が呼んだ。
紅蓮は奥様の顔を見つめ返す。
その声、その響き。どこかで何度も呼ばれた気がする。「ナナ」と――。
「……私です」
紅蓮の表情に、氷以外の色がほんの一瞬だけ差した。
次の瞬間、奥様は堪えきれず紅蓮を抱きしめ、声を上げて泣いた。
「やっと……やっと見つけた、ナナ……!
毎晩夢に見たのよ。目が覚めるたびに、夢の中に戻りたかった……
母さんが悪かった。母さんがあなたを失くした……ナナ、全部母さんのせい……!」
熱い涙が紅蓮の首筋を濡らす。
じわりと伝わる温度に、紅蓮の背がわずかに強張った。
誰かが、自分のために泣く。――初めてだった。
胸の奥を、ぬるいものが静かに流れていく。
紅蓮は息を整え、低い声で宥める。
「……泣かないで。戻りました。昔のことは、もういい。あなたのせいじゃない」
懐理も慌てて口を挟む。
「そうだよ母さん。ナナが帰ってきたんだ。嬉しいことだろ。泣くなって」
奥様は必死に涙を拭い、今度は両手で紅蓮の顔を包み込むようにして、まじまじと見つめた。
頬は煤け、火の中をくぐったみたいに灰がついている。眉骨のあたりには黒い汚れがこびりついていた。
それでも奥様は嫌がらない。指の腹で、少しずつ丁寧に拭っていく。
灰の下から現れた素顔に、奥様の息が震えた。
澄んだ瞳。若い頃の自分そのまま。
鼻筋は夏川さん譲りで、すっと高いのに小ぶり。手のひらほどの顔が、あまりに繊細で、壊れそうに見える。
養女の夏川瑠璃は「絶世」と持て囃されてきた。
だがそもそも、瑠璃が迎えられた理由は――紅蓮に似ていたからだ。五、六分似ただけで絶世なら、本人は言うまでもない。
「……うちのナナ、綺麗になった」
涙を溜めたまま、奥様は笑った。泣き笑いで、知らない者が見たら狂っていると思うほど。
それでも、どれほどこの瞬間を待ち望んだか――本人だけが知っている。
奥様の指が紅蓮の眉や目元をなぞる。骨に刻みつけるみたいに、確かめるように。
紅蓮は、他人に触れられることに慣れていない。
小さく咳払いし、悟られない程度に身を引いて手から逃れた。
「身体は整えました。ただ、激しい動きと感情の起伏は控えて。しばらく静養が必要」
奥様の目に、また涙が滲む。
「ごめんね、ナナ……いい時に見つけてあげられなくて。家が落ちぶれてから、やっと……」
奥様は一度言葉を切り、覚悟を決めたように続けた。
「紅蓮。もし瑠璃みたいに『この家にいると迷惑になる』と思うなら……出ていってもいいの。責めない」
「生きていて、幸せなら……それでいいのよ」
懐理が青ざめて叫ぶ。
「母さん! せっかく見つけたのに、なんでそんなこと言うんだよ!」
奥様は鋭く睨みつけた。
「黙りなさい。あなたは外を走り回って、家で何が起きてるか知らないでしょう」
「うちは、昔とは違う。残るかどうかはナナが決めるの」
懐理は唇を噛み、紅蓮を見つめることしかできなくなる。
懐斗はというと、感情の波は薄い。二十年以上の空白は、そう簡単に埋まらない。
それに彼が今いちばん大事にしているのは瑠璃だ。紅蓮が去れば、瑠璃が戻るかもしれない――そんな期待すら残っている。
沈黙が二、三秒。
紅蓮が、静かに答えた。
「……心配しないで。私は行きません」
当時、家族が捨てたわけではないのなら、去る理由はない。
それに――こちらにも事情がある。海市で動くなら、海市の「身分」がいる。
懐理の顔がぱっと明るくなる。
「そうだよ! 紅蓮、田舎に戻ったって畑仕事だろ? 家が落ちぶれても、そんなのさせねぇ!」
奥様が驚いて紅蓮を見る。
「あなた……農作業を?」
紅蓮は曖昧に返した。
「まあ……そんな感じ」
奥様の涙が、また溢れた。
「知らなかった……そんなに苦労して……」
紅蓮は奥様の手を握り返し、落ち着いた声で言う。
「苦労してません。考えすぎないで」
さっきまで、懐斗の態度次第では出るつもりだった。
けれど、この涙を見て――心のどこかが、揺れた。
奥様は何度も頷き、紅蓮の手をきゅっと握り締める。
「いい子……」
その横で、懐斗が小さく鼻を鳴らした。
「母さん、そこまで自責すんなよ。田舎でも案外いい暮らしだったんじゃねぇの」
「あんなに肌が白い田舎者、見たことねぇぞ」
汚れてはいる。だが、頬の肌理は驚くほどきめ細かく、触れれば壊れそうなほどだ。
少なくとも、飢えて育った肌じゃない。
