第8章 絶対に彼女を許さない
夏川懐斗が夏川紅蓮を呼び止めようとした時には、彼女の背中はすでに玄関の向こうへ消えていた。
一言もなく来て、一言もなく去る。
風みたいに、あっという間。
残された夏川懐斗は、逆にどう動けばいいのか分からなくなる。
もともと、あいつは大嫌いだった。
なのに今は――思っていたほど嫌悪感が湧かない。そんな気がした。
だが、それも一瞬だ。
夏川懐斗は、夏川瑠璃を連れ戻す決意を改めて固めた。
夏川紅蓮が妹なのは間違いない。
けれど、夏川瑠璃だって妹だ。
どのみち手は治った――。
彼は窓の外へ目をやった。
2階。高くはない。
次の瞬間、懐斗は扉へ向かい、内側から鍵をかける。
それから窓辺に立ち、一気に飛び降りた。
瑠璃がいるのは、おそらく婚約者の家だ。
婚約者は高見家の若様――高見浩然。
瑠璃を迎えに行く。必ずだ。
懐理も母さんも、夏川紅蓮の肩を持つ。
だからあいつらの言葉を鵜呑みにはできない。自分の口で、瑠璃に確かめる。
……。
一方。
夏川紅蓮が夏川奥様の部屋へ戻ると、奥様は衰弱が限界だったのか、眠りに落ちていた。
手の中には、スマホをぎゅっと握ったまま。
紅蓮はそっとそれを受け取り、ナイトテーブルへ置こうとして――画面に残ったメッセージ履歴が目に入った。
要するに、今季の最新作の服を一式、送ってほしいという内容。
胸の奥が、ほんの少しだけやわらぐ。
紅蓮は布団の端を整え、音を立てないように廊下へ出た。
そのタイミングで、海藻頭から通知が入る。
暗部の医療依頼、その住所だった。
「発注主の高見家にはこちらから話を通しました。いつでもお越しください」
「分かった。今から向かう」
返信を打ち、紅蓮は夏川懐理を探して「少し外を歩いてくる」と告げた。
「俺も一緒に行く! 土地勘ないだろ。迷ったら困る」
紅蓮は住所をさらっと口にする。
「イケ通りの1号」
そこは夏川家の住所だ。
つまり――戻れる、ということ。
懐理は頭をかきながら引き下がった。
「そ、そうか。じゃあ……暗くなる前に必ず帰ってこいよ。何かあったらいつでも電話してくれ。俺は家で部屋の片づけして待ってる。あと、これ。俺のカード。中に2,000万ちょい入ってる。好きに使え」
紅蓮は手を振る。
「いらない。お金ならある」
「あるわけないだろ。遠慮すんなって」
懐理は半ば強引に、カードを紅蓮の手に押し込んだ。
「何がどれだけ要るか分からないんだ。欲しいものがあったら買え。今のその服、ボロすぎる。自分で店行って、好きなの選べ」
男の自分じゃ、女の子の好みは分からない。だからこそ言うしかなかった。
紅蓮は口元だけ薄く引いて、それでもカードを受け取った。
夏川家の車は目立ちすぎる。
少し考え、紅蓮はタクシーで出ることにした。
三十分後。
彼女が降りたのは、漢方薬局だった。
「この薬材をください」
店主が受け取って目を通し、訝しげに紅蓮を見上げる。
「お嬢ちゃん、これ全部高級品だぞ。特にこのチヒログサ……うちの看板だ。一本しかない。一本で1,000万はする」
「払える」
店主はもう一度、紅蓮を値踏みするように見た。
その服――滬城の乞食だって、ここまでボロは着ない。
「はいはい。うちは真面目に商売してんだ。冗談に付き合う暇はない。帰りな」
そう吐き捨てた瞬間、薬局の入口に、目を引く女性が現れた。
店主の目がぱっと輝き、紅蓮を放り出して駆け寄る。
「高見嬢じゃないか! 今日も爺様のお薬かい?」
高見唯月は小さく「うん」と頷く。
「いつもの処方で。……あと今回はチヒログサも1本足して。ここにあるって聞いた」
「さすが高見嬢、目利きだねぇ。チヒログサはうちの看板だが、値が張る」
「私が金に困ってるように見える?」
「とんでもない! すぐ用意します!」
店主が奥へ向かおうとした、その腕を――細いのにやけに強い手が掴んだ。
振り返ると、夏川紅蓮。
店主は露骨に顔をしかめる。
「まだいたのか。帰らないなら警察呼ぶぞ!」
「チヒログサは、私が先に頼んだ」
それを聞き、高見唯月がようやく紅蓮へ目を向けた。
みすぼらしい格好を見た瞬間、鼻で笑う。
「何よ、あんた。私と薬を取り合うつもり? 私が誰だか分かってる?」
「先に来たのは私」
高見唯月は可笑しくてたまらないといった顔になる。
「坂東の旦那。ここって、乞食でも客扱いするの?」
店主は慌てて首を振った。
「まさか! どこの誰かも分からないのが勝手に――今すぐ追い払います!」
そう言って、紅蓮を睨みつける。
「最後だ。さっさと失せろ!」
紅蓮は一歩も退かない。
「先に来たのは私」
「この――!」
店主が怒鳴りかけたところで、高見唯月が指を鳴らした。
ぱちん。
すぐさま、屈強な護衛が二人、店内へ駆け込んでくる。
「お嬢様!」
高見唯月は顎を上げ、紅蓮を示した。
「その乞食、外へ放り出して。旦那の手を煩わせないで」
「かしこまりました!」
二人が凶悪な顔つきで近づく。
だが手を伸ばした瞬間――
ドンッ。
一人が紅蓮の回し蹴りを喰らって吹き飛び、壁に叩きつけられ、床に崩れ落ちた。
もう一人は顔色を変え、手にしたスタンバトンを振り上げる。
頭を狙われれば、死ぬ。
だが高見唯月は一切ひるまない。
どう見ても後ろ盾のない相手だ。警察沙汰になっても、味方するのは自分だと信じている。命なんて安い。
――しかし次の瞬間。
スタンバトンが宙を舞った。
紅蓮の蹴りで弾き飛ばされたのだ。
衝撃で護衛の手がびりびりと痺れる。
速い。重い。
これ……古流会の身のこなし?
思考が追いつく前に、紅蓮は男の襟首を掴み、そのままレジ台へ叩きつけた。
ガンッ!
額から血が噴き出し、男はそのままぐったりと動かなくなる。
高見唯月は息を呑み、反射的に二歩下がった。
「な……何者よ、あんた……! いい? 私は高見家のお嬢様よ! 私に逆らうってことは、死ぬってことだから!」
紅蓮の瞳は、最初から最後まで淡々としていた。
「高見家」という単語を聞いた時だけ、瞼がわずかに持ち上がる。
紅蓮は血まみれの護衛を放り捨て、呆けた店主へ視線を向けた。
「チヒログサ。売る? 売らない?」
「お、俺は……」
店主が言いよどむと、高見唯月が鋭く割り込む。
「坂東の旦那。あいつに売ったら、あなたの店は今日で終わりよ」
店主の肩がびくりと跳ねた。
だが次の瞬間、紅蓮の視線が突き刺さる。皮を削ぐみたいな冷えた圧。
「……っ」
店主はごくりと唾を飲み込み、覚悟を決めた。
「……1,000万だ。あんた、払えるのか」
問われたのは紅蓮だ。
紅蓮は黒いカードを放る。
「好きに切って」
店主は半信半疑で受け取り、端末に通す。
1,000万――決済完了。
「……か、かしこまりました! すぐ持ってきます!」
高見唯月が青ざめて叫ぶ。
「坂東の旦那、正気!? 商売続ける気あるの!?」
店主は何も言わず、奥へ消えた。
数分後。
店主は紅蓮が指定した薬材をすべて揃え、両手で差し出した。
冗談じゃない。
金より命だ。
看板の品を売った以上、当面食うには困らない。店を畳んで場所を変えればいい。
ここで死ぬよりは遥かにましだった。
紅蓮は薬材を受け取り、カードを回収して店を出ようとする。
すると高見唯月が慌てて前へ出て、進路を塞いだ。
「行かせない!」
紅蓮は冷えた目で彼女を見下ろす。
「……まだ奪い合うつもり?」
その視線だけで、数トンの重圧でもかけられたように高見唯月の喉が詰まる。
連れてきた護衛は二人。しかも二人とも使い物にならない。自分は素人――勝ち目などあるはずがない。
紅蓮は、唯月が言葉を失ったのを確認すると、薬材を抱え直し、足早に店を出た。
高見唯月は屈辱で顔を歪め、奥歯が砕けそうになる。
覚えてろ。
次に会ったら、絶対に許さない。
「高見嬢……」
店主が恐る恐る声をかけた。
「実は、チヒログサと似た効き目の薬材なら――」
「黙れ!」
高見唯月は店主を睨みつける。
「明日、店を畳む準備でもしてなさい」
吐き捨て、彼女は血まみれの護衛を足で蹴った。
「役立たず! さっさと立って、ついて来なさい!」
チヒログサを買えなかったら、両親に叱られて終わりだ。
しかも、両親が呼んだ神医はもうすぐ到着する。向こうから名指しでチヒログサを要求されている。
時間がない。別の薬局を当たって、まだ在庫がないか探さないと――。
そして店の外。
高見唯月を待つ車の中には、夏川紅蓮の「婚約者」――江口沢が座っていた。
