第1章
S市、アオウミのヴィラ街――葉山家。
八月の初旬。真昼の熱気が屋敷を押し潰し、忙しく立ち働く使用人たちの顔まで重たく曇らせていた。
その静けさを、突然の悲鳴が切り裂く。
「きゃあ――!」
使用人たちがはっとして視線を向けると、リビングのソファ脇で白いワンピースの少女が床に倒れ込んでいた。まるで誰かに突き飛ばされたみたいに。
葉山家の次女――葉山詩音だ。
慌てて人が集まり、葉山家の奥方である沈村梅子が愛娘を抱き起こす。すると、詩音の頬は赤く腫れ、くっきりと平手打ちの跡が浮かんでいた。露出した腕や脚にも、目に痛いほどの青あざ。
沈村梅子は胸を締めつけられたように叫ぶ。
「詩音、どうしたの?! 誰に……!」
葉山詩音は青ざめた顔で、震える手をゆっくりと上げ、向かいを指さした。
皆がその先を見る。
テーブルの向こうに立っていたのは、詩音と同じくらいの年頃の少女。
葉山家の長女――沈村蓮。
沈村蓮は片手で胸元を押さえ、何かの痛みに耐えるように身を強張らせていた。周囲の視線など、まるで届いていないかのように。
葉山詩音が弱々しく言う。
「お母さん……お姉さんを責めないで……。わたし、お姉さんがわざとじゃないって信じてる……」
その一言で、「真相」は決まった。
沈村梅子は考える間もなく怒鳴りつける。
「沈村蓮! 何度言えばわかるの。詩音はあなたの妹よ。いじめるなって、何度も言ったでしょう! 突き飛ばして叩いて……どうしてそんなに意地が悪いの――」
言い終える前に、冷たい光が視界を横切った。
果物ナイフが沈村梅子の目の前を掠め、硬い大理石の床へ斜めに突き刺さる。
刃に映る沈村梅子の顔色がみるみる変わり、周囲の使用人たちも息を呑んで凍りついた。
沈村梅子が恐る恐る視線を上げると、沈村蓮の淡い瞳とぶつかった。
「葉山詩音を突き飛ばしてない。信じないなら監視カメラでも見ればいい。でも、都合よく目が見えないなら……言っても無駄ね」
沈村蓮は呆然とする沈村梅子と葉山詩音の前まで歩み寄り、身を屈めてナイフを軽々と引き抜いた。
指先で刃をすっと撫で、淡々と言う。
「それと――これ以上、私に汚名を着せるなら。名乗りどおりにしてあげてもいい」
振り返りもせずに腕を一振り。
ナイフは皆の視線の中、正確にテーブルの上のリンゴへ突き立った。
沈村蓮は床に座り込む母娘を跨ぐように避け、階段へ向かって大股で歩き、二階へ上がっていく。
リビングは、死んだような静寂に沈んだ。
葉山詩音が痛みに耐えきれず声を漏らして、ようやく沈村梅子が我に返る。
「なんて無礼なの! 執事! あの子の部屋を鍵で閉めなさい。反省させるのよ! 私の許可が出るまで、水も食事も一切持っていくんじゃない!」
沈村梅子は泣きそうな詩音を見て、また胸を痛める。
「詩音、先に病院へ行きましょう!」
葉山詩音は可哀想そうに頷いた。
使用人に支えられて出ていく直前、詩音は二階の方を不安げに見上げる。
……
二階の部屋の洗面所。
沈村蓮は蛇口をひねり、鏡に映る「見慣れているのに見慣れない自分」をじっと見つめた。
濃いメイク、青いロングの巻き髪。まるでギャル崩れの小娘だ。
沈村蓮は眉を寄せ、顔を洗って化粧を落とす。ようやく現れた素顔は、陶器のように白い肌と、整いすぎるほど鮮やかな顔立ち。
生まれつきの狐目は、笑えば目尻が艶やかに跳ね上がり、笑わなければ鋭く冷たい。
この顔を使うのは――六年ぶりだった。
沈村蓮は幼い頃から祖父と二人で暮らしていた。十三歳のとき、葉山家の人間が突然現れ、「取り違えられた本当の葉山家の娘」だと言って彼女を迎えに来た。
だが、葉山家へ戻ったその瞬間、彼女の身体は「変な女」に乗っ取られ、沈村蓮の意識は別の場所へ弾き飛ばされた。
一年前、沈村蓮はようやく戻ってきた。
けれど魂が弱りきっていて、身体の主導権を奪い返せない。彼女はその女の傍で、ただ黙って一年間を「見ている」しかなかった。
そこで知ったのは、その女が学力最底辺で、取り柄もなく、早々に学校を辞めて芸能界に飛び込もうとしたこと。
葉山家は名門を気取る家だ。そんな真似を許せるはずがない――はずだった。
だが、十三年も外で苦労させた負い目があったのか、女の強引さに押され、結局は認めてしまった。
結果は散々。
三年も足掻いて、売れないまま。しかも黒い噂ばかりが積み上がり、ネットで嘲笑される「炎上要員」になった。
一方、病院で取り違えられた「偽物の令嬢」が葉山詩音だった。実の両親は山奥の貧しい村にいるという。
詩音を実家へ返せば苦労する――そう思った葉山家は、彼女を手放さず、葉山家に残した。
女と違い、葉山詩音は成績優秀で品行方正、見た目も可憐で、葉山家の寵愛を一身に受けた。
さらに、ダンス動画がスカウトの目に留まり芸能界へ。才色兼備の「名門お嬢様」キャラで一気に人気を得て、フォロワーは百万単位。女とはあまりに対照的だった。
そして最悪なのが――同じ場にいるたび、なぜか「女が詩音をいじめた」写真が週刊誌に流れ、ネットは一斉に女を叩く。
女はやっていない。だが葉山家は信じなかった。
「嫉妬して詩音を追い出したいんだ」と決めつけ、葉山家の人間は女をますます嫌悪していった。
さっきの騒動も、詩音の言葉で女が逆上した隙を突き、沈村蓮が身体を奪い返した――それだけだ。
沈村蓮は適当にマシな服へ着替え、葉山家へ戻ったときに持ってきたバッグを探す。
中のスマホやカード類は、女が触れずに保管していた。
沈村蓮は女のSIMを抜き、自分の端末へ挿し替え、データも移す。
片づけ終えてバッグを持ち、部屋を出ようとした――が、扉は鍵がかかっている。
沈村蓮は無表情のまま一歩下がり、勢いよく蹴り込んだ。
ガンッ――!
重い音に、廊下の使用人が振り返る。
シャツにパンツ姿の沈村蓮が出てきて、そのまま階段を下りていった。扉は今にも外れそうに揺れている。
使用人たちは口を開けたまま固まった。
一階。
執事は沈村蓮を見て、一瞬、息を呑むほど見惚れた。数秒遅れて正体に気づき、眉をひそめる。
「お嬢様、奥様が謹慎を――」
「どけ」
沈村蓮は表情一つ変えず、葉山家を出ていった。
アオウミはタクシーが入れない区域だ。
沈村蓮はスマホを起動し、配車アプリを試すが捕まらない。仕方なく出口へ歩き出す。
そのとき、控えめな色のマイバッハが通り、沈村蓮の横で止まった。
窓が下がり、低い男の声。
「すみません。アオウミの出口はどちらですか?」
沈村蓮が顔を向けると、後部座席の男と目が合った。
無感情に近い表情。だが輪郭の整った顔立ちは息を呑むほど端正で、前髪が黒い細長い目を半分隠している。冷たい白い肌、骨格の良さが際立つ。
話すたび、珠が触れ合うかすかな音。
沈村蓮の視線は自然と下へ落ち、男の手に止まった。骨ばった関節、手の甲に浮く筋、淡い血管。強く、長い指。
手首には黒い数珠。細かな経文が彫られ、明らかに安物ではない。
沈村蓮は少しだけ手フェチで、つい見入ってしまう。男がもう一度尋ねてきて、ようやく我に返った。
沈村蓮は男を見て、なぜか口が勝手に動く。
「道案内はできる。ついでに、乗せてくれる?」
