第2章
車内の男が沈村蓮をじっと見つめていた。
少しして、男は自らドアを押し開け、軽く手を上げる。――乗れ、という合図。
沈村蓮は遠慮なく乗り込むと、外へ出る道だけ告げ、腕を組んで背もたれに身を預けたまま目を閉じた。
車がゆるやかに動き出す。気配だけの視線が刺さる。たぶん前の運転手だ。
別に驚きはない。
あの女がこの身体を使って芸能界をうろついていた。売れてはいないのに、黒い噂で妙に名前だけは広まって、三流の一歩手前くらいまで知名度が跳ねた。青い髪なんて、目立たないほうが無理だ。
沈村蓮は小さく舌打ちし、あとで美容院に寄って髪色を戻すか、と考える。
ほどなくアオウミを抜け、車は路肩に停まった。沈村蓮がドアへ手を伸ばすと、男の視線がこちらへ向くのがわかった。
「ありがとう」
それだけ言って降り、道路の向こうへ歩き出す。
早すぎて、男が何か口を挟む暇すらない。
車内は、さっきよりも静かだった。
運転席の周防紀太郎が、恐る恐る訊く。
「洋介様、次はどちらへ……アオウミに戻りますか?」
周防紀太郎は一年前にこの男のもとへ来たばかりだ。普段から傍にいても、考えが読めない。
たとえば今もそうだ。
彼らは一年前からアオウミに住んでいる。なのに、さっき洋介様は「出口がわからない」などと言った。しかも今日は予定がない。外出する理由なんてないはずなのに。
男の整った横顔は影に沈み、表情まで暗く見える。
わずかに首を傾け、車外のサイドミラーへ視線を落とした。
長い沈黙のあと。
「DHマンションへ戻る」
周防紀太郎は目を瞬かせた。
「……アオウミは?」
「もう行かない」
……
沈村蓮は近場の美容院で髪を染め直し、夕方にはタクシーでS市の中心区へ向かった。
六年前、葉山家に引き取られたとき、沈村蓮は自分のバイト代をかき集めて部屋を借りていた。
あの女は、沈村蓮の記憶を持っていない。だからこのマンションの存在も知らない。
部屋に着き、バッグを探って鍵を取り出し、開けて入る。
二LDK。灰と黒を基調にした、冷たいミニマルな内装。出ていく前と大して変わっていなかった。
事前に清掃会社へ頼んでおいたおかげで、室内はすっきりと清潔だ。
沈村蓮は満足して書斎へ向かい、扉を開ける。
そこには、用途のわからない奇妙な道具がいくつも並んでいた。
机の椅子に腰を下ろし、古いパソコンを起動する。数回操作すると、ページが立ち上がった。
淡々と目を走らせていると、スマホが鳴る。表示された名前は浅川月。あの女の、今のマネージャーだ。
葉山家は手広く事業をやっていて、芸能界にも食い込んでいる。
葉山成也と沈村梅子には息子が二人いる。次男の葉山和也は、葉山グループ傘下の星崎事務所の社長で、業界でも名の知れた敏腕マネージャーだ。
以前、葉山詩音が芸能界に入りたいと言い出したときは、葉山和也が直々に面倒を見て、資源を惜しみなく注ぎ込んだ。
一方で、あの女には「恥さらしだ」と星崎入りを嫌がり、よくわからない小さな事務所へ放り込んだ。結果、搾取され放題。
全ネットから叩かれたときも、葉山家は守らなかった。あの女は一時、本気で死のうとするほど追い詰められていた。
そんな中、一年前。
あの女は、浮気男に裏切られて死のうとしていた浅川月を偶然助けた。浅川月は国内の大手、盛川事務所所属のマネージャーで、まだ二年目ながら腕は悪くない。
恩返しにあの女を契約したがったが、黒い噂まみれのタレントを取る会社は少ない。案の定、上層部は首を縦に振らなかった。
浅川月が別の小さな会社を紹介しようとした矢先、盛川の上層部が突然OKを出した。
あの女は舞い上がり、浅川月と「黒でも赤でも、話題なら勝ちって判断されたのかも」と話していた。
盛川の後ろ盾で状況は少し良くなった。だが盛川と星崎は犬猿の仲で、葉山和也はそれが気に入らない。
その浅川月からの電話だ。
沈村蓮は一応、出る。
「何」
澄んだ声。淡々としていて、どこか気怠い。前の刺々しさとは明らかに違い、電話の向こうで浅川月が一瞬言葉を失ったのがわかった。
だが、すぐに切羽詰まった声が返ってくる。
「今日のトレンド見た?! 葉山詩音が病院に入ったってパパラッチが撮って……世論が最悪だよ。みんな『この前の田山監督の番組発表会で詩音に負けたのが悔しくて、またいじめた』って!」
沈村蓮は眉をわずかに上げた。
田山監督は業界の大御所で、手がけた番組もドラマも外したことがない。新企画の枠は、どの芸能人も喉から手が出るほど欲しがる資源だ。
少し前、田山監督が「生配信のリアリティ番組」を発表し、枠の奪い合いが始まった。
葉山詩音も参加したがり、葉山和也が大金を投じて枠を取った。葉山家も反対しない。
枠を得た詩音は、あの女の前で見せつけるように自慢した。あの女も参加したくなったが、葉山家は助けない。浅川月に泣きついた。
盛川が取ってくれるとは思っていなかったのに、なぜか枠が来た。
盛川上層部の返答はこうだ。――契約した以上、いつまでも赤字のままではいられない。黒い噂も薄れてきた今、田山監督の番組で流れを変える。
あの女は必死に準備し、葉山家には黙っていた。裏で潰されるのが怖かったから。
だが発表会で詩音と鉢合わせ、詩音は驚いたあと、記者も観客もいない裏で嘲笑した。
あの女は堪えきれず、詩音を平手打ちした。
直後、外から記者が入ってきて、その瞬間を撮られた。
即トレンド入り。ネットは「降板しろ」「芸能界から消えろ」と大合唱。
あの女は絶望し、浅川月は「しばらく身を隠そう」と慰めたが、葉山家はさらに冷たくなった。
今日の件も、積もり積もった屈辱と怒りが限界を超えただけだ。
そして浅川月の言うトレンドは、どうせ詩音が買った工作だろう。収録が近いのに田山監督が降板を発表しないから、焦っている。
浅川月が必死に言う。
「トレンドはこっちで全力で火消しする。上も、まだ完全に見捨ててないってことだし……田山監督の番組も、まだ望みはある。あなたは準備に集中して。ほかは私がやるから」
沈村蓮は、厳しいと思った。
今の状況なら、盛川が契約解除を検討していてもおかしくない。まだ通知していないだけだろう。
それでも、魂の状態で見ていた浅川月は確かに尽くしていた。資源を取りに走り、余計な冷遇も受け、それでも「いつか報われる」と笑っていた。
沈村蓮は言う。
「トレンドの件は心配しなくていい。私がやる」
