第1章

獣医師になって十年、忍耐力にはそれなりの自信があったけれど、目の前の子牛はなかなか産道を抜けてくれそうになかった。

「いい子よ、鈴。もうすぐだからね」

荒い息を繰り返す母牛の脇腹を撫でながら、私は囁いた。

「あなたの赤ちゃんは、私が絶対に守るから」

ひときわ強い陣痛の波が来た。そのタイミングに合わせ、私は慎重に子牛の肩を導き出す。ジーンズが血と羊水でぬめり、鉄錆びた匂いが鼻をついたが、気にもならなかった。これこそが、私が獣医師を志した理由そのものだ。泥と羊水にまみれながら、新しい命がこの世に生まれ落ちる、そのどうしようもなく美しく、尊い瞬間のために。

やがて、ぬるりとした完璧な体躯が、私の待つ腕の中へと滑り込んできた。すぐに気道を確保してやると、小さな体がぷるぷると震え、初めての呼吸を始めるのが見えた。母牛の鈴が、大きな頭を我が子にすり寄せたとき、張り詰めていた胸のつかえが、ふっと下りるのを感じた。

伊藤農場の記録に、また一つ、無事に産まれた命が書き加えられる。

その時、腰のスマートフォンが震えた。画面には、夫である水野颯太の名前が光っている。

「里奈、今すぐ手を止めろ」

彼の声は、穏やかだった納屋の空気に突き立てられた氷の刃のようだった。

「俺たちの家族の将来に関わることだ」

生まれたばかりの子牛に目をやる。まだ覚束ない脚で、懸命に立とうと震えていた。

「颯太、ごめん、今ちょっと手が離せないんだけど――」

「今すぐだ、里奈。家に帰ってこい。今すぐに」

有無を言わさぬ口調で、電話は一方的に切られた。

手の中のスマートフォンを、私は呆然と見つめた。

結婚して八年になるが、颯太が私にあんな声色を使ったことは一度だってなかった。去年の春、トウモロコシの価格が暴落し、経営が苦しくなった時でさえも。

私は急いで作業日誌にメモを書きつけ、後片付けを済ませると、鈴の体を最後にもう一度ぽんと叩いた。

「よく頑張ったわね、お母さん」

雨に濡れて滑りやすくなった田舎道を、車で十五分。逸る気持ちを抑えながら、私は家へと急いだ。

土間で泥まみれの長靴を脱ぎ捨て、冷たい板の間へと上がり込む。茶の間へと続く襖に手をかけ、一気に開け放った。そして、室内の光景に息を呑んだ。

ダイニングテーブルの、私の席に、見知らぬ女が座っていた。

艶やかな黒髪がランプの光を弾く。女が息子の水野直樹の宿題を覗き込むと、その音楽のように柔らかな声が、部屋の隅々まで染み渡るようだった。八歳になる息子は彼女の言葉の一言一句に聞き入っており、喘息持ちの彼には欠かせない吸入器が、算数のワークシートの隣で忘れ去られている。

「完璧よ、直樹くん」女は言った。「本当に賢いのね」

颯太は、やかんのそばで肩をこわばらせて立ち尽くしていた。

私が部屋に入ったことに気づくと、彼は気まずそうにこちらを向いた。

「里奈」ひとつ咳払いをして、彼が口を開く。「こちらは松本千恵さん。松本徹さんの娘さんだ」

その名前に、聞き覚えはあった。松本家は、うちの東側の牧草地に隣接する農場を営んでいる。だが、娘さんに会ったことはなかった。町の噂では、もう何年も前に大学進学でここを離れたきりだと聞いていた。

松本千恵が顔を上げた。その笑みは、なぜか目元までは届いていない。

この田舎町には不釣り合いな、洗練された都会的な美しさを持った女性だった。一部の人間だけが、努力などおくびにも出さずに身にまとえる、あの種の美しさだ。どこかで見たことがあるような気がしたが、それがどこだったか、すぐには思い出せなかった。

「やっとお会いできました、里奈さん」彼女は言った。「素晴らしい方だと、いつも伺っておりましたから」

直樹が彼女に満面の笑みを向けた。

「千恵さんがね、分数の計算を手伝ってくれてるんだ。すごく分かりやすくて、楽しいよ、お母さん」

「……そう、よかったわね」

私は颯太と、テーブルにいるこの見慣れぬ女を交互に見つめた。

「颯太、これは一体どういうことなの」

彼は計算し尽くされたような、どこか芝居がかった手つきで書類フォルダーを取り出した。

「千恵さんは、ステージ3の乳がんだと診断された。隣人として、俺たちには彼女を助ける義務がある」

彼がダイニングテーブルに広げた医療書類を、私は見つめた。星川大学病院のレターヘッド、公的な印、そしてランプの光では判読しにくい医師の署名。

「……お気の毒に」

何かがおかしい。そう感じながらも、反射的に言葉が口をついて出た。

「治療費が、かなりの額になるんだ」颯太は続けた。「それに千恵さんは、化学療法の合間に落ち着いて療養できる場所が必要だ。松本さんのご実家から病院までは四十分かかるが、うちからならたったの十五分だ。治療中に容態が急変した場合、この差が生死を分けるかもしれない。徹さんもご高齢で、四六時中の看病は無理だろう」

直樹が、おもむろに松本千恵の手を握った。

「千恵さんって、すごく勇敢なんだね。僕にも、千恵さんみたいに強くなる方法を教えてくれる?」

「あら、直樹くん」

松本千恵の声は絶妙なタイミングで震え、その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「あなたは自分が思っているより、ずっとずっと強い子よ」

抗議したかった。なぜこんな大事な話を、今になって初めて聞かされるのかと問いただしたかった。しかし、直樹はまるで天使でも見るかのように松本千恵を見つめており、颯太の顎は、私が見慣れたあの頑固な一線を描いていた。

「颯太、ここは私たちの家よ」私は慎重に言葉を選んだ。「まずは、二人きりで話し合うべき問題じゃないの?」

「話し合うことなど何もない」

颯太の口調は、一切の反論を許さなかった。

「もう決まったことだ」

一時間後、私は寝間の襖口に立ち、颯太が箪笥から私の私物を運び出しているのを、ただ眺めていた。祖母の形見である銀のブラシセット、寝る前に読むのが習慣のロマンス小説、直樹の入学式の日に撮った家族の写真立て。

「彼女は薬や治療のために、縁側の向こうの風呂が必要なんだ」颯太は私と視線を合わせようともせずに説明した。「それに、君にとっても座敷のほうが快適だろう」

いつの間にか、松本千恵が私の隣に立っていた。まるでそこが自分の定位置であるかのように、敷居にそっと寄りかかっている。

間近で見ると、念入りな化粧や完璧にセットされた髪が目についた。がんと闘病中の人間にしては、あまりに奇妙な選択に思えた。

「ご迷惑をおかけして、本当にごめんなさいね、里奈さん」

彼女は弱々しく、わざとらしく息を切らしながら言った。

「これがあなたにとってどれほど辛いことか、私には分かっているつもりですよ。死に直面したことのないほとんどの人には、助けを必要とする者の気持ちなんて、到底理解できないでしょうから」

その言葉の裏にある棘が、ちくりと心を刺した。動物たちが生きようともがく姿を、私は何年も見つめてきた。その命の重さは、人間のそれと何ら変わらないはずなのに、この女の前では無価値だと言われているようだった。

その夜、座敷の隅に敷かれた慣れない布団にもぐり込んでからしばらくして、直樹の部屋の襖が開く微かな音が聞こえた。縁側を歩く足音――颯太のものにしては、あまりに軽い。

「野生の馬に乗ったときの話、もっと聞かせて」

薄い壁の向こうから、弾んだ直樹の声が聞こえてくる。

松本千恵の、銀の鈴を転がすような笑い声が続いた。

「ええと、あれは最初の化学療法の真っ最中だったかしら。もうほとんど立てないくらい衰弱していたのだけど、ふと窓の外を見たら、それは美しい野生の馬がいて……」

私は枕に顔を強く押し付けた。

直樹が私に寝る前の物語をせがまなくなったのは、一体いつからだっただろうか。がんを前にした冒険と勇気の物語に比べて、「お母さん」はいつからこんなにも退屈な存在になってしまったのだろう。

「本当の勇気っていうのはね」松本千恵は、諭すように言っていた。「自分がどんなに苦しいときでも、他の人を思いやれる心のことなの。ちょうど、直樹くんのお母さんが、疲れているときでも動物たちみんなの世話をしてあげているみたいにね」

その言葉は、親切を装った、何より残酷な嘲りのように聞こえた。私は自分の家で、自分の居場所を、少しずつ、しかし確実に奪われつつあった。

「おやすみ、直樹」

私は暗闇に向かって、誰にも届かない声で囁いた。

眠れそうになかった。時計が十一時を指した頃、私は諦めて懐中電灯を手に、そっと納屋へと抜け出した。鈴の出産のあと、獣医用の道具を作業台に散らかしたままだったことを思い出したのだ。

道具を一つ一つ片付け、消毒し、所定の場所に戻していく。体が覚えた無心になれる作業に没頭していると、いつの間にか、松本千恵が差し出したあの医療書類のことを考えていた。

人獣共通感染症の事例で人間の医療専門家と連携するようになってから、私は何百という公的書類に目を通してきた。あの書類は……どこか、作り物めいて感じられたのだ。

私は納屋の暗闇に腰を下ろし、屋根を打つ雨音と、眠る動物たちの立てるかすかな物音に耳を澄ませた。家の窓の向こうでは、松本千恵の影が、まるでこの家の主であるかのように動き回っているのが見えた。

十年間の獣医師としての経験は、言葉を話せない相手の僅かな異変を見抜く術を私に教えてくれた。兆候は、すべて揃っていた――一貫性のない症状、都合の良すぎるタイミング、そして診断内容とまるで一致しない行動。

私はスマートフォンの画面を灯し、友人の須田沙織にテキストメッセージを打った。

『まだ星川大学病院に知り合いはいる? ちょっと、お願いしたいことがあるかもしれない』

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