第1章 白衣の悪魔

総合病院のトイレで、隣の個室から夫の渡辺光正と愛人の声が漏れ聞こえてきた。

「光、もう待ちくたびれたわ。早く彼女と別れて。これ以上待たせないでよ」

「安心して、美咲ちゃん。裏切ったりしないから」

私は理性を必死に保ち、飛び出してこのクソップルの顔を引っ掻き回すのを堪えた。

数日前、渡辺光は私を旅行に連れ出した。目的地は私たちの住む町から遠くない、隣町の温泉街だった。

地元で評判の旅館を選んでくれた。山沿いに建つ、景色の良い静かな宿だった。

午後、妊娠のせいで最近は睡眠時間が長くなっていた私は散歩に行く気が起きなかったが、彼が何度も勧めてきた。この近くには廃れかけた神社があって、妊婦が祈ると安産の助けとなり、神様の加護を受けられる、子供にもいいと。

歩いていくうちに、この道はどんどん辺鄙な方へと逸れていった。観光地らしくない場所だった。

ホテルに戻りたくなった。体力も徐々に奪われ、渡辺光の歩調についていけなくなっていた。

彼は前をどんどん早足で進み、もう背中も見えなくなりそうだった。かすかに「早く来て」と急かす声が前方から聞こえるだけ。

急な坂道が現れた。怖くなって何度か彼を呼んだが、返事はなかった。心の中で何度も自分を鼓舞し、覚悟を決めて、坂の脇の太い木につかまりながら必死に登り始めた。

辺りが暗くなり始めた時、手が滑って木から離れてしまい、横に傾いて倒れ込んだ。全身に痛みが走り、坂の脇の森へ転がり落ちた。意識が遠のく直前、かすかな懐中電灯の光と、大勢の人の叫び声だけを覚えている。

目が覚めると、町の総合病院のベッドに横たわっていた。消毒液の匂いが鼻を突き、渡辺光の姿はなかった。

痛みをこらえながら起き上がると、膨らんでいたはずの腹部が平らになっていることに気付いた。私の赤ちゃんが...

耳に渡辺光の声が聞こえてきた。誰かと電話をしているようだ。

必死の思いでベッドから立ち上がり、窓際まで這うように進んだ。総合病院の玄関前のベンチに座る渡辺光が見えた。笑いながら電話で話している。

「もう大丈夫だよ。子供はいなくなった。俺が自ら堕ろさせたんだ」

思わず近くのカーテンを掴んで体を支えた。あまりの衝撃で倒れそうになるのを必死でこらえたが、カーテンの動きを彼に気付かれてしまった。

電話を切った彼は窓の方を見上げた。私はカーテンの陰に隠れ、息を潜めた。

彼の足音が遠ざかっていく。病室に戻ってくるのだ。

その時、私は残された理性で病床に戻り、まだ意識不明のふりをした。すぐにベッドの傍らに人影が立った。動かない。じっと私を見つめている。露骨な視線と呼吸が痛いほど感じられた。

身動きひとつせず、心拍を抑えようと必死だった。この白衣の悪魔にまだ目覚めていることを悟られたくなかった。どう対応すればいいのか、まだ考えがまとまっていなかった。

恐怖で冷や汗が布団を濡らす中、どれだけの時が過ぎただろう。ようやく玄関のドアが閉まる音が聞こえ、彼は出て行った。

すぐさま目を開けた私の頭の中には、ただひとつの考えしかなかった。逃げなければ。私の子供を殺した男と同じ部屋にいられない。

産後の体力の衰えも顧みず、携帯電話を掴んで部屋を飛び出した。

外は夜明け前で、町の街灯は薄暗かった。森の小道を伝って必死にこの町から逃げ出そうとした。悪魔からできるだけ遠くへ。

私は混乱していた。渡辺光に私がいなくなったことを気付かれ、追いかけてくるのが怖かった。

今の私には彼に勝てない。もし捕まったら、きっと酷い目に遭わされる。

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