第2章
午後いっぱい、准一は私を避け続けていた。私がリビングで二時間座っていれば、彼は書斎に二時間こもる。キッチンに水を汲みに行って、入った途端にトイレのドアが閉まる音。夜、私が風呂から上がった頃には、もう寝室に鍵をかけていた。
ドアの下の隙間から、灯りがすうっと漏れている。
廊下に立ち尽くしたまま、その細い光だけを見つめた。
中で、何してるの?
ふいに頭の中に映像が差し込んでくる。頬が一気に熱くなった。
まさか。
……ある?
私は手を上げ、指先を彼のドアの前で止めた。
叩く? 叩けない。
結局、手を下ろす。やめた。そんな度胸、まだない。
自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んで天井を睨む。隣の部屋の人が今何をしているのか、こんなに知りたいなんて——三年で初めてだ。
脳裏に、過去三年の断片がぱらぱらと蘇る。わかった気になっていたこと。今見ると、まるで別物に見えること。
准一は毎朝六時に起きる。仕事中毒で早起きが習慣なのだと、私は思っていた。けれど本当は? 私の起床時間とわざとずらしていただけ。七時半に私が朝食を取りに階下へ降りる頃には、彼はもう出ている。用意された朝食だけがテーブルに残る。
三年。毎日、ずっと。
それから、パーティー。私がドレス姿で立っていると、何人かの男性が話しかけてくる。世間話に褒め言葉、名刺交換。よくある社交辞令だ。なのに毎回、准一がふいに私の隣に現れる。表情は氷のように冷たく、男性たちはそれを見るや否や、適当な理由をつけて去っていった。
私は、私が彼の顔に泥を塗っているのが嫌で、社交の邪魔だと思っているのだと勘違いしていた。
今思えば、あれは嫌悪なんかじゃない。
嫉妬だ。
それに深夜、たまに彼の部屋から聞こえてきた物音。仕事の電話だと決めつけていた。
今は……。
私は枕に顔をうずめた。
ああ、もう。彼、この三年、どうやって耐えてきたの?
寝返りを打って、壁を見る。壁の向こうは彼の部屋。一枚隔てただけ。
そう思った瞬間、心臓が速くなる。
今、彼は何を考えてる? 私のこと?
目を閉じると、口元が勝手に緩んだ。
准一、もう逃げられないよ。
翌朝、目が覚めたときには准一はもう会社へ行っていた。テーブルに朝食が残されている。目玉焼き、ベーコン、トースト、そして温かい牛乳。
トーストを持ったまま、ゆっくり噛んでいると、ふっとひとつの考えが浮かんだ。
私はトーストを置き、二階へ上がって着替える。
クローゼットに掛かっていた紺のワンピース。ウエストが絞られ、襟元は開きすぎず詰まりすぎない。きちんとしているのに女らしい。鏡の前で一回転する。
完璧。
書斎から適当な書類を一部つかみ、そのまま家を出た。
准一の会社は都心の、ガラス張りの高いビル。エントランスのドアを押すと、受付の女性が顔を上げた。
「いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょうか」
「羽山准一に」
「ご予約はございますか」
「妻です」
「かしこまりました。では——」そこで声が途切れ、目が見開かれる。「……え? いま、何と?」
受付は目を丸くしたまま慌てて電話を取る。私はにこりと笑った。
だって、私が彼の会社に来るのは初めて。周囲からも驚いた視線が飛んでくる。
一分も経たないうちにエレベーターの扉が開き、准一がほとんど駆け出すように出てきた。顔に不安が張りついている。
「日奈?」早足で近づいてくる。「何かあったのか」
私が口を開くより先に、頭の中で彼の声が爆発した。
「なんで会社に? 事故か? 体調悪いのか? 書店でトラブル? でも元気そうだ。……今日、やけに綺麗だな。あのワンピ……くそ、そこのやつ、どこ見てんだ。目、えぐりたい」
私は書類を差し出した。「これ、家に置きっぱなしだった。届けに来たの」
准一は一瞬呆けた顔で受け取り、視線を落としてから私を見る。「……ありがとう。わざわざ来なくてよかったのに」
「書類だけ? 本当にそれだけ? 笑うと、ずるいくらい可愛い……」
私は一歩、距離を詰めた。彼の体から、薄いコロンの匂いがする。
「ついで」私は見上げて言う。「それと、夜。早めに帰ってきて」
准一の喉仏が、ごくりと上下した。「ああ」
私はつま先立ちになる。
彼が反応するより早く、唇が彼の頬に触れていた。周囲から小さな悲鳴みたいなざわめきが上がる。
准一は石みたいに固まった。
体温が伝わる。息を止めた気配がわかる。
私は一歩引き、跳ね上がる心臓を押さえつけながら言った。「じゃ、帰るね」
言い終えると同時に踵を返した。ほとんど逃げるみたいに。
振り返って表情を確かめる勇気もない。続きの心の声を聞く余裕もない。ただ、頬が熱くて、心臓が爆発しそうで。
ガラス扉を押し開けると、外の冷たい風が頬を撫でた。
私は大きく息を吸う。
笑いが、どうしても隠せない。
うそ。私、今なにしたの。大勢の前で、彼にキスした。
でも……最高。
スマホを取り出し、親友に電話をかける。
「もしもし?」
「今すぐ出てきて。買い物付き合って!」
「え、今? 店は?」
「店員いる。いいから早く。大事な用があるの」
「はいはい。いつもの場所ね」
通話を切り、もう一度だけあの高層ビルを振り返る。ガラスの壁が陽射しを反射して、中は見えない。
私は笑ってスマホをしまった。
ちょっと刺激の強いの、買って帰ろ。
どこまで我慢できるか、見せてよ。
