第6章
「何すんだよ!」
平原秋友は叩かれてじんじんする手の甲を押さえ、いきなりスマホを叩き落とした平原光を睨みつけた。
「時間のムダだ。あいつに頼るな」
平原光の声は石みたいに硬い。
「あの男は来ない。俺たちのことも認めないし、ママのことだって信じない。そんなやつが、助けに来るわけないだろ」
「でも……」
秋友は鼻をすん、と鳴らし、床に転がったままブラックアウトした子ども用ウォッチを見下ろす。
「来ると思う。さっき電話、出たじゃん。場所だって聞き返してた」
「それがどうした?」
光は言い切って、しゃがみ込み、ウォッチを拾い上げる。視線だけをソファの隅へ向けた。小さく縮こまり、顔色の悪い平原雪子がいる。
「雪子。家で待ってろ。何かあったら、時計で俺に連絡。いいな?」
雪子は必死に頷く。
「うん……わかった。気をつけてね。ママ、連れて帰ってきて」
「任せろ」
光はまだ納得していない秋友の腕を掴み、ぐいっと引っ張った。
「行くぞ!」
小さな背中が二つ、団地を飛び出していく。
◆
道路脇で光がタクシーを止めた。運転席の中年男が、ドアにも届かないほどの子どもを見て眉を上げる。
「坊や、親御さんは?」
光は財布から一万円札を抜き出し、焦った声で押し込む。
「おじさん、ママが西の古い工場にいるんだ。お願い、すぐ連れてって!」
運転手は胡散臭そうに目を細めた。
「お母さんに電話しな。連絡が取れないと乗せられないよ」
光が言い返そうとした、その瞬間。
秋友が急にしゃくり上げた。
「うぅ……パパが浮気して、あそこで別の女の人と会ってるの……ぼくたち、証拠取りに行くの……」
運転手の目が見開かれ、光も一瞬固まる。
「……二人で、か?」
まだ疑う声。
秋友は涙声のまま畳みかけた。
「生活費、もらいに行くだけ……ママ、病院にいて、お金なくて……」
「クソだな!」運転手が吐き捨て、アクセルを踏み込む。
ぐん、と背中が押しつけられる。タクシーは西へ向けて猛スピードで走り出した。
◆
車内で光はタブレットから目を離さない。自分で雑に引いた地図を睨み、眉間にきゅっと皺が寄る。
秋友は窓に張りつき、荒れていく景色に唾を飲んだ。
「工場って……広いの? どうやってママ探すの?」
光は顔を上げないまま、リュックの中を探る。
「平気。これ、持ってきた」
取り出したのは薄い黒いケース。ぱかりと開けると、手のひらサイズの改造ドローンが収まっていた。小さなカメラまで付いている。
秋友の目がぱっと輝く。
「ドローン!」
「着いたらこれで探す。走り回るより速い」
◆
三十分ほどで、タクシーは雑草の生い茂る空き地の端で止まった。
遠くに連なる赤煉瓦の工場群。割れた窓、剥げた壁――長い間、人の気配がない。
光は運賃を払うと秋友の手を引き、振り返りもせず工場地帯へ駆け出した。
半壊した煉瓦壁の陰に身を潜め、すぐドローンを起動する。ぶぅん、と低い羽音。黒い機体がすっと浮き上がり、いちばん大きな建屋へ向かった。
映像はリアルタイムでタブレットに映る。
秋友が喉を鳴らし、覗き込む。
「……見える?」
「焦るな」
光は操作を細かく刻み、ドローンを窓から滑り込ませた。
建屋の中は広く、暗い。雑物の山、錆びた機械、垂れた配線。何度視点を変えても人影はない。
――間違えたか。
そう思いかけたとき、画面の隅。油缶の陰で、何かが動いた。
角度と焦点を調整する。ぶれた映像が、次第に輪郭を取り戻していく。
ママだ。
平原綾香が両手を後ろ手に縛られ、椅子にもたれている。口はテープで塞がれ、髪は乱れ、頬には青あざが滲んでいた。
そばには汚れた作業着の男が二人。煙草をくわえ、苛立った様子でうろついている。
「ママ……!」
秋友が叫びかけた瞬間、光が手で口を塞いだ。
「しっ……!」
光の心臓がどくどく暴れる。ドローンを少し離し、ウォッチで通報しようとした――その刹那。
映像の奥から、禿頭の男が近づいてきた。何か指示を飛ばす。見張りの一人がにやつき、腰から短い棒を抜いた。綾香へ向け、軽く振ってみせる。
殴る気だ。
光の頭が、ぶわっと白くなる。通報じゃ間に合わない。
――やるしかない。
光はドローンを一気に上昇させ、角度を取る。スピーカーを起動。
次の瞬間、甲高い警告音が建屋の上部に鳴り響いた。
「なんだ?!」
「警察か?」
男たちが一斉に上を見上げ、きょろきょろと探す。
禿頭がいち早く怒鳴った。
「あっちだ! ドローンだ! 捕まえろ、逃がすな!」
手下二人が走り出す。
光は歯を食いしばり、指を滑らせた。
ドローンは梁と配管の隙間を縫い、鳥みたいに翻る。男二人を建屋の中でぐるぐる引き回し、綾香から距離を取らせていく。
「いたぞ! 追え!」
「くそ、速ぇ!」
「曲がった! こっちだ!」
秋友は息を殺しながら、震える声で言った。
「光兄さん……すごい」
光は返事もしない。額には細かな汗が浮いていた。
数分後、タブレットの画面に赤いバッテリー警告が点滅する。
「……ヤバい。電池が」
戻そうとしたが、減り方が想定より速い。
ドローンがふらつき、高度が落ちる。
「失速したぞ! あっち!」
目ざとい男が叫ぶ。
画面がぐるりと回転し――ぱつん、と漆黒。
◆
同じ頃、松村グループの会議室。
通話が途切れたあと、松村礼嗣は立ったまま動かなかった。
室内は水を打ったように静まり返り、重役たちが息を潜める。突然、顔色を変えた社長の様子が、理解できない。
林原深川が腹を括り、一歩前に出た。
「松村様……何かありましたか」
「何でもない」
松村礼嗣は冷たい声で切り捨てる。
「女の手口だ」
「会議を続けろ」
――だが、たった1分。
松村礼嗣は弾かれたように立ち上がった。真皮の椅子がきい、と鳴る。重役たちの肩が一斉に跳ねた。
松村礼嗣の顔は鉄青。誰も見ずに扉へ向かい、大股で歩き出す。
「松村様?」
林原深川が慌てて追う。
「車を回せ」松村礼嗣は振り返らない。「西の旧工場へ。今すぐだ!」
