第82章

平原小春が最初の鍵盤を弾き下ろした瞬間、音がほどけるように流れ出した。

それは春の風みたいに明るく、ほんの少しだけ切なさを含んでいるのに、不思議と胸の奥が落ち着く。

客席では、思わず目を閉じる人がいた。

小春は弾けば弾くほど没頭していく。難所のフレーズも、彼女の指先では水の上を滑るみたいに淀みなく繋がっていった。客席に座る田原隆志の顔色は、時間が経つほどに陰っていく。

彼はピアノに詳しいわけじゃない。けれど、音が生き物みたいに耳の奥へ入り込み、心臓のいちばん柔らかいところにぽとりと落ちる。理屈なんて要らない。ただ、いい。

曲名は知らない。だが一つだけ確かなことがある。

さっき娘が...

ログインして続きを読む