第1章 離婚協議書
「緊急通報!PKO隊員一名が前線で負傷!危篤状態!応援要請!」白石さゆりは素早く戦闘服を着用し、救急バッグを持って戦闘チームと共に指定地点へ向かった。
煙に包まれた戦場を進みながら、彼女たちは敵の砲火を慎重に避けた。水原悟の位置に近づくにつれ、砲撃は激しさを増し、極めて危険な状況となっていた。
水原悟はすぐそこにいるのに、戦火のせいで近づけない。白石さゆりは覚悟を決め、単独で医療バッグを背負い、這いながら前進した。
ついに水原悟の傍まで辿り着いた白石さゆり。彼の脚部は重傷を負い、血が止まらない状態だった。深く息を吸い込み、冷静に傷口を清潔にし、止血して簡単な包帯を施した。
「水原さん、水原さん、寝ないで!意識を保って、気を失わないで!」白石さゆりの声が執拗に水原悟の耳に届く。
傷の痛みと火薬の灼熱の中、もうろうとした煙の向こうで、水原悟は心に染み入るような清涼感を覚えた。
その声には癒しの力があるかのように、水原悟は先ほどの痛みを感じなくなっていた。この女性軍医の顔を見たかったが、目の前は血で曇り、何も見えなかった。
体が揺れ動くのを感じ、そして意識が途切れた。
「水原社長、水原社長、お目覚めください」耳元で清々しい男性の声が響き、また体が揺れ動いた。水原悟は反射的に傍らの男性を押さえつけ、デスクに押し付けた。
「私です、網島です」網島特助は慣れた様子で少し抵抗してから諦めた。水原社長は昔PKO隊員として戦場を経験し、警戒心が極めて強く、まだPTSDの症状が残っているのだ。網島新とは親しい間柄なので、ただの牽制で済んだが、見知らぬ人なら首を絞められていたかもしれない。
「何だ?」水原悟は正気に戻り、すぐに網島新を解放した。落地窓の外の景色を見て、思わず首を振った。
繁華な都市に戻っているというのに、どうして戦場の日々を思い出してしまうのか?
あの女性軍医は、まだ生きているのだろうか?
「頼んでいた件は?」
「はい、準備できております」網島新は机の上のファイルを手に取り、水原悟に渡した。透明なファイルの中から、離婚協議書の文字がはっきりと見えた。
「ご指示通り、奥様には別荘一軒と五億円の補償を用意しました。ご署名いただければ、市役所での手続きに入れます」網島新は少し考えてから、思わず助言を加えた。
「社長、実は奥様はとても良い方で、私たちにも分かります。奥様は...」
「もういい!」水原悟は厳しい声で遮り、離婚申請書を手に取ると、さっと立ち去った。網島新は仕方なく小走りで後を追った。
深夜の街は灯りが疎らで、時折車のクラクションが鳴り響くだけの静けさだった。水原悟は見慣れたドアの中へ入っていった。
リビングの明かりが柔らかく照らす中、ソファーには温かな光が映っていた。その時、水原悟の目は思わずソファーの上の人影に引き寄せられた。白石さゆりが丸くなって眠っており、安らかな表情を浮かべていた。明らかに彼を待ちながら眠りについたのだろう、甘い寝息が静かな夜空に響いていた。
水原悟は思わず白石さゆりの声を思い出した。あの女性軍医の声と少し似ているような気がした。
そう思った途端、水原悟は自嘲気味に笑った。白石さゆりはただの山村育ちの普通の娘で、おじいさんの寵愛がなければ一生関わることもなかっただろう。こんな女が、戦場で機転の利く軍医であるはずがない。
テーブルの上には丁寧に作られた料理が並び、立ち上る湯気と共に漂う優しい香りが、白石さゆりの想いを物語っているようだった。
水原悟の胸の内に言い表せない感情が湧き上がった。彼は白石さゆりが嫌いだった。しかしおじいさんのために彼女と結婚せざるを得なかった。今やっと三年の約束が満たされ、おじいさんとの約束も果たせた。これで香奈と結婚できる。
この女については、水原悟は冷遇するつもりはない。別荘一軒と五億円もあれば、後半生を優雅に暮らせるだろう。
離婚を決めた以上、これ以上の関わりは持たないほうがいい。
水原悟は白石さゆりに触れたくなかったので、そのままソファーで寝かせておくことにした。
水原悟が寝室のドアを開けた時、おそらく音が大きかったのか、白石さゆりが目を覚ました。彼女は目をこすりながら顔を上げ、水原悟を見た瞬間、その目に喜びと疲れた後悔の色が浮かんだ。
「お帰りなさい。また残業かと思っていました...」
「待つ必要はない」水原悟は冷たく言い放った。
「大丈夫です」白石さゆりの声は優しくも確かだった。疲れた体を起こしながら、温かな笑顔を見せた。
「私、悟を待つのが好きなんです」
「約束の期限が来た」水原悟は白石さゆりをなだめることもせず、すぐに本題に入った。
「離婚しよう」
白石さゆりは雷に打たれたように、心がどん底に落ちた。
「おじいさまは...ご存知なの?」
「知らなくてもどうということはない」
白石さゆりは胸が刺されるような痛みを感じ、涙が目に溢れた。目の前の現実が悪夢のように思えた。
「本当に私と離婚するつもりなの?」白石さゆりの声は震えていた。落ち着こうと努めていたが、すすり泣く感情が内心を裏切っていた。三年間、心を尽くして尽くしてきたのに、この男の心を少しも掴めなかったことが信じられなかった。
「もう十分だ」水原悟は手を振り、話を聞く忍耐すら失っていた。
「あの時、お前と結婚したのは間違いだった。お前だって分かっているはずだ。俺はおじいさんに反抗していただけで、心に決めた人もいた。ただいくつかの理由で一緒になれなかっただけだ。今や三年の約束も終わり、香奈もアメリカから帰ってきた。俺は彼女と結婚する。だから、お前は水原家の奥様の座を譲るんだ」
「香奈」その名前が棘のように白石さゆりの心を刺した。
「そうね、幼なじみの香奈さん。彼女に比べたら、私なんて何でもないわ」
「分かっているならいい」水原悟の声は冷たく、決意に満ちていた。
「離婚したくない、私たちの過去は、そんなに簡単に捨て去れるものなの?」白石さゆりは前に飛び出し、彼を遮った。涙が頬を伝い落ちた。彼女の声には限りない懇願と絶望が混ざっていた。
「愛しています、悟。私はまだあなたの妻でいたい...たとえ私への感情がなくても...」
「愛のない結婚なんて、俺には要らない」水原悟の声には疲れが混じっていた。離婚協議書をテーブルの上に置いた。
「俺はもう署名した。お前も早く。香奈が帰ってくる前に、全ての手続きを済ませたい」
水原悟はそう言い終えると、振り返ることもなく寝室へ戻った。最後に一言残した。「補償として五億円と西郊の別荘一軒を用意した。お前が持参金なしで出て行くのは、おじいさんに申し訳が立たない」
その夜空を切り裂くような言葉は、まるで刃物のように二人の絆を完全に断ち切った。白石さゆりの心は引き裂かれたように感じ、涙が止まらなかった。彼女は背を向け、もう彼を見ることができず、心の中は諦めと絶望で満ちていた。
ドアが完全に閉まると、白石さゆりの痩せた体はもう立っているのもやっとで、テーブルの端にしがみつきながら、とても小さな声で涙ながらに独り言を呟いた。
「悟、私たち...離婚しないで済まないかしら?」
白石さゆりの呟きは、部屋の中で鳴り響く携帯電話の着信音に掻き消され、誰にも聞こえることはなかった。
静かな一夜が過ぎた。
朝日がカーテンの隙間から部屋に差し込み、全てのものに金色の輝きを纏わせていた。しかし、水原悟が寝室から出てきた時、彼を迎えたのは空っぽの家だった。白石さゆりの馴染みの姿も、温かい朝食の香りもない。ただテーブルの上に置かれた冷めた料理と空の朝食茶碗だけが、この家から日常の活気が失われたことを無情にも思い出させていた。
水原悟は眉をしかめ、心の中に不安が湧き上がった。無意識のうちにキッチンへ向かい、彼女の残したものがないか確認しようとした。しかし、冷蔵庫の中にはいくつかの野菜や果物があるだけで、白石さゆりがいつも彼のために用意していた豊かな朝食の不在が、今は特に目に痛かった。彼の心には空虚感が広がり、この瞬間になって初めて、失ったのは美味しい料理ではなく、彼のために尽くし続けた女性だということに気付いた。
「社長、おはようございます」網島新の声が彼を物思いから引き戻した。秘書は職業的な笑顔を浮かべていたが、その笑顔は今の水原悟にとって痛みを伴うものだった。
「ああ」彼は適当に返事をし、複雑な感情に心を奪われていた。そんな時、網島新の言葉が晴天の霹靂のように彼の心を打った。
「奥様が...もう出て行かれました」網島新は静かに告げた。
水原悟の表情が暗くなり、脳裏に白石さゆりとの日々の思い出が次々と浮かんだ。いつも黙々と彼の世話をし、一度も不満を漏らさなかったあの女性が去ってしまった。
「そんなに急いでいたのか」水原悟は胸が締め付けられる思いだった。今は安堵感を覚えるはずなのに、現実には心の底に後悔の念が隠せなかった。白石さゆりの赤く腫れた目と、彼女の絶望的な表情が思い出された。
突然、水原悟は気付いた。自分は一晩中寝室にいて、何の物音も聞こえなかった。白石さゆりは荷物も片付けずに出て行ったのか?まさか、また戻って来られると思っているのだろうか?
網島新は水原悟の疑念を察したように、自ら説明を始めた。
「奥様は何も持たずに、小さなノートだけを私に預けて、黒い車に乗って行かれました」
水原悟はリビングを見回した。署名済みの離婚協議書が静かにテーブルの上に置かれ、涙の跡が残っていた。
昨晩まで泣き叫んでいたくせに。
水原悟はまるで誰かに一杯食わされたような気分で、不機嫌そうに秘書に問いかけた。
「網島新、誰の車か調べてこい!」
「はい、社長」
五分後。
「社長、調べがつきました。KSグループ社長の車です!」
KS……唐沢家の長男か?!
白石さゆりは小さな村から出てきた女の子で、お金も背景もなく、この三年間彼と一緒にいる間も友達すらいなかった。それが唐沢家の若旦那に取り入ることができるなんて?
無縫隙にやるもんだな。大したもんだ!
「社長、今日……本当に奥様に離婚を切り出したんですか?」秘書が恐る恐る尋ねた。

















































