第1章

渡部綾香は、夫の周防文哉と浮気相手の林野佳恵に、陰気で湿った地下室へ閉じ込められて――まる五年が過ぎていた。

灯りは一つきり。

それも、彼女が辱めを受けるときだけ点く。痩せこけた身体を白々と照らし出すために。

かつての明るい艶やかさは、もうない。長い栄養失調と心を削る仕打ちで、彼女は枯れ木同然になっていた。

周防文哉と林野佳恵が興に乗れば、わざわざ彼女の目の前で交わり、終わったあとには必ず嘲りを投げつけた。

「渡部綾香。今のお前、どんな鬼みてぇなツラだよ。渡部家の令嬢だった頃の威光はどこ行った?」

「どこの野郎に弄ばれてボロボロになったのか知らねぇが、そんな女が俺の妻? 笑わせるな。爺さんの遺産がなきゃ、視界に入るだけでも不快だ。汚ぇんだよ」

林野佳恵は裸のまま、指にだけはダイヤの指輪をはめていた。細い指を綾香の目の前へ突き出し、楽しげに笑う。

「お姉ちゃん、見て。文哉さんが新しく買ってくれたの。きれいでしょ? こんな火彩が似合うのは、私みたいな女だけだって」

「お姉ちゃんの爺さん、死んでもいいものいっぱい残してくれたよね。私と文哉さん、何代でも遊んで暮らせる」

「……お前ら……ろくな死に方しない……!」

もう長くないと見て取ったのか、林野佳恵は慈悲ぶった声で「真実」を落とした。

「あ、そうだ。お姉ちゃん、まだ知らないよね? 短命だった爺さんの死……事故じゃないの」

「パパがね、薬にちょっと細工したんだ。ほんの、ちょっとだけ」

渡部綾香は、もう心など鉄の塊だと思っていた。

断食も、蝋燭で肌を焼かれるのも、細い針を爪の隙間にねじ込まれるのも耐えた。

――それでも。

その言葉を聞いた瞬間、喉の奥が裂けるほどの悲鳴が溢れた。

彼女が苦しむほど、林野佳恵は愉快そうに笑った。

「そろそろ死んでよ。お姉ちゃん、本当はとっくに、あの野種と一緒に手術台の上で死んでるはずだったのに。今からでも遅くないでしょ」

ばたばたと雑な足音。

綾香は地下室から運び出された。

久しぶりの陽光が、目を灼いた。視界が真っ白になる。

服を剥がされ、手首は切断されたかのように痛み、最後には水を張った浴槽に押さえつけられた。

溺れて死んだのか、失血で死んだのか。

誰にもわからない。誰も気にしない。

死の間際、渡部綾香は――五年前、爺さんがまだ生きていた頃へ戻った気がした。

何もかもが、まだ起きていなかった頃へ……。

「綾香! 聞いているのか!」

威圧的で苛立った声が、頭上から降ってきた。

綾香ははっと目を開ける。

そこは書斎の真ん中。彼女は床に膝をついていた。

正面には、権力を象徴する大きな机。その向こうに父・林野正明がどっかり座っている。

隣には――渡部家で十年以上も家政婦をしてきたはずの木村晴美。今はまるで女主人の顔をして。

この光景……爺さんが亡くなって七日目。

林野正明が婚約破棄を迫り、彼女を「あの男」へ差し出そうとした、あの日だ。

――生き返った。

綾香は、運命の分岐点へ戻ってきた。

前世の記憶が、血の匂いとともに押し寄せる。

十八歳の成人祝いの日。薬を盛られ、見知らぬ男と乱れた一夜を過ごし、妊娠した。

爺さんだけが、世間の悪意から彼女を守ってくれた。

だが子どもは、生まれた時点で死産だと告げられた。顔すら見せてもらえない。

難産で彼女自身は助かったものの、身体は壊れ、回復に二年を要した。

その直後、爺さんが心筋梗塞で急逝。

ほぼ同時に、海外に巨大な勢力を持つヤクザの組長――鈴宮京也が縁談を持ちかけてきた。

二十二歳。家族の激変に打ちのめされ、彼女は鈴宮京也の恐ろしい噂に怯え、婚約者・周防文哉へ逃げ込んだ。

幼なじみで、許婚で、最後の拠り所だと信じて。

けれど現実は違った。

周防文哉、林野正明、木村晴美、そして「妹のように」思っていた家政婦の娘・林野佳恵。

彼らは最初から結託していた。

周防文哉の優しさは罠。

五年の結婚生活は、冷たい檻だった。

「不貞で死産した」という理由を盾に、周防文哉は毎日、精神を踏みにじり、身体を痛めつけ、爺さんが遺したものを一つ残らず呑み込んでいく。

林野佳恵はその傍らで、愛を見せつけ、彼女の惨めさを何度も刻みつけた。

そして価値が搾り尽くされたとき、待っていたのは――「自殺」に仕立て上げられた結末。

「……周防家はもう終わりだ。あそこへ嫁いでも、お前は足を引っ張られるだけだ」

林野正明の声が、血まみれの記憶を引き戻す。

「鈴宮家との縁談は俺が決めた。鈴宮京也がお前を娶る。これはお前の運であり、渡部家の好機だ」

木村晴美がわざとらしく声を上げる。

「正明! そんなの駄目です! 鈴宮京也って、ヤクザの組長ですよ? 人殺しも平気だって……! 周りは元傭兵ばかりで、銃を持ってるとか!」

「それに三歳の息子までいるんです。母親は不明で……その子、喋らないって噂で、性格も陰気だって……綾香が嫁いだら火の中へ飛び込むようなものです!」

三歳の息子――。

綾香の心臓が、ぐっと殴られた。

もし、あの子が生きていたら。

ちょうど三歳。母を失い、そんな世界で……。

周防文哉へ嫁ぐのは、死に戻る道。

鈴宮京也へ嫁ぐのは、未知の深淵。

だが深淵の底には、復讐のための唯一の武器が眠っているかもしれない。

そして――「もしも」の、かすかな縁。

林野正明の値踏みする視線と、木村晴美の偽りの憂いの中で。

綾香はゆっくり顔を上げた。

頬は青白い。けれど瞳に涙はない。

死の底で沈殿した、冷たい決意だけ。

「……いい」

掠れた声が、それでも妙に澄んで響く。

「私、嫁ぐ」

書斎が、凍りついた。

林野正明の用意していた説得が喉で詰まり、目を見開く。

木村晴美も、演技の仮面がぴしりと固まった。

ちょうど扉を開けて入ってきた周防文哉が、その言葉を聞き――足を止めた。

用意していた悲痛な表情が崩れ、信じられないという顔だけが残る。

綾香は彼らの動揺を冷たく眺め、心の中は荒野のように乾いていた。

周防文哉を一瞥すらせず、踵を返して書斎を出る。

黄銅のドアノブを握る。ひやりとした感触が、意識を冴えさせた。

扉を開ける。振り返らず、ただ言い捨てる。

「鈴宮京也に伝えて。私、嫁ぐって」

……

闇の中、熱い手のひらが肌を這う。

ざらついた指先。厚く灼ける男の身体がのしかかり、高価なドレスが容赦なく裂かれる。

思考は捨てられ、血が燃え、頭が真っ白になる。

本能だけが彼女を導き、荒々しい口づけへ唇を開いた。ひやりとした息が、焦りを薄めてくれる気がした。

――見えない。

闇の中で男が束縛を外し、巨大なものを向けてくるのが。

内側は、その大きさに耐えきれない。男が何度も試しては、理性のない彼女が本能で逃げる。

苛立った男は彼女をひっくり返し、白い肌に痕を刻んでいく。

熱い舌が、蛇のように潜り込み、刺激に彼女は声を上げた。

逃れたと思った次の瞬間、裂ける痛みと、未知の奔流が全身を攫う。

綾香は跳ね起きた。

絹のパジャマが冷汗で肌に貼りついている。

窓の外は白々と明るい。何事もなかったように。

それでも耳に残るのは、荒い呼吸と、夢の中の息苦しい感覚だけ。

あの夜から、人生は完全に外れた。

妊娠、婚約者からの罵倒、爺さんの庇護、出産、死産の宣告、そして爺さんの死。

歯車は一つずつ、正確すぎるほど噛み合っていた。

――偶然なわけがない。

あの男は、誰だった? 目的は?

シーツを握る手に力が入り、指の関節が白む。

胸の奥で、復讐の火が燃える。だが手がかりがない。敵は闇に潜っている。

そのとき。

枕元の新しい携帯が、不意に鳴り響いた。部屋の死寂を、ぶつりと断ち切るように。

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