第4章

渡部綾香が、銃の練習に手をつけた。

その後の二日間、彼女は部屋で大人しくしているように見せかけて、ネットと闇のルートを使い、慎重に情報を拾い集めた。

必要なのは、撃てる場所であることだけじゃない。十分に人目を避けられて、表の肩書――渡部家の令嬢という自分と、きっぱり切り離せる場所。

そこで彼女の視界に入ったのが、トラという名のプライベートクラブだった。掲示板での評判はこうだ。「金さえ払えば素性は問わない。設備は本職仕様。口は異様に堅い」

望みどおり。

彼女はトラの短期会員権を買い、暗号化メールで初回の来訪時間まで取り決めた。

林野正明は、彼女の行き先など気にも留めない。義父の死の後始末と公的な仕事で、いまだ手が回っていなかった。

渡部修司の遺産は途方もない額だ。表に出ている資産だけでも頭が痛いのに、木村晴美と林野佳恵が、ついに「家の女主人」の顔で渡部家に居座り、日々、彼に甘い言葉を注いでいる。

前妻が遺した娘が、どこへ行こうが――気にする暇も、気にする気もない。

トラは、古びた倉庫ビルの内部に潜んでいた。入口は拍子抜けするほど地味で、重い金属扉と、門扉横の監視カメラだけが主張している。

短期用の通行コードを照合されると、扉がぎぎ、と鈍く開いた。

その瞬間、鼻を刺す。火薬が混じった独特の匂い。

中は想像以上に広く、灯りも明るい。

いくつもの射座に人影が張りつき、黙々と撃っている。新顔に向けられる視線は薄く、空気は無駄に喋らない集中で満ちていた。

腕に刺青を這わせた巨漢が近づき、綾香を一瞥する。声は錆びた金属みたいにしゃがれている。

「新入りか。短期?」

綾香は帽子のつばを落としたまま頷き、現金の封筒を差し出した。

「場所を一つ。あと、基礎だけ教えてほしい」

男は封筒を手の中で量り、ぽいとポケットへねじ込むと、奥の方を顎で示した。

「いちばん奥。あそこだ。規則は壁の札を読め。安全第一、何かあっても自己責任。教官は別料金、時間制」

「一人つけて」

言葉は短い。それ以上の迷いもない。

回ってきた教官は、小原という中年だった。寡黙で、目が冷静だ。

綾香が持ち込んだ小型のレディースモデルを点検すると、余計な前置きなしに、要点だけを叩き込んでくる。

「握る。手首は真っすぐ。目、照星、的……三点を一直線」

綾香は息をするのも惜しいほどに聞き取った。細部まで、骨に刻む勢いで。

これは、誰かに守ってもらうためじゃない。自分で自分を守るための力だ。

初めての実弾。

乾いた爆音が耳を殴り、反動が腕を跳ね上げた。銃口がぶれて、弾がどこへ飛んだのかもわからない。

虎口が痺れ、鼓膜がじんじん鳴る。

それでも、すぐに感覚を拾い直す。

小原の言葉を思い返し、もう一度、銃を持ち上げた。

バン! バン! バン!

最初は散った。的の外に逃げる弾も多い。

柔い掌は、ざらついたグリップに削られて早々に痛みだす。だが彼女は握りを強め、黙って引き金を引き続けた。額から落ちた汗がマスクを濡らし、肩と腕は反動の蓄積で重く熱を持つ。

自分に、容赦がない。

小原は腕を組み、横で見ていた。

銃を習いに来る人間は山ほど見てきたが、こういう娘は珍しい。金持ちの娘特有の甘さもなければ、刺激を求める浮つきもない。

あるのは、苛烈なほどの集中と、完璧になるまで終わらせないという凄み。

その瞳の奥で、火が燃えている。

――事情持ちか。

数時間の高密度な練習ののち、小原が声を落とす。

「今日はここまでだ。筋肉が疲労してる。続けても精度が落ちるし、傷める」

綾香は、まだ目も当てられない散り方をした的紙を見つめ、唇を結んだ。

反論はしない。銃を下ろし、分解と清掃に入る。動きはぎこちないのに、やけに丁寧だった。

その日から、渡部綾香は毎日、渡部家とトラを往復した。

ほとんど全ての時間をそこへ注ぎ込む。朝早く出て、深夜、身体を引きずるように帰宅する。

掌にはすぐ血豆ができ、破れ、暗赤色の痂皮になった。古い傷の上に新しい傷が重なり、無残なほど荒れる。

それでも包帯をきつく巻き、また撃つ。

握るたび、包帯の下で鋭い痛みが走る。だが彼女の目は一度も揺れない。

痛みすら、鍛えるための燃料だと言わんばかりに。

装填、スライドを引く、照準、撃発。

単調な動作を何千回、何万回と繰り返す。腕が上がらなくなれば数分だけ休み、また戻る。

上達は、はっきり見えた。

全弾が外れていたところから、まずは的に乗る。次に10メートルで安定する。さらに15、20へ。

汗で濡れたトレーニングウェアが何枚も替わり、掌のタコが厚みを増していく。

小原は時折、最低限だけを指摘した。あとは見守るだけ。

この娘が命を削るように撃っていることも、その裏に深い何かがあることも、わかっている。

だがトラの掟は一つ――素性を聞かない。理由を問わない。

七日目の午後。

綾香は20メートルの射座に立ち、厚い包帯を巻いた手で銃を安定させた。

視線は遠い人型標的の胸へ、釘づけ。

連日の過酷な練習で身体は限界に近い。なのに精神は、むしろ鋭く冴えていく。

苦しい? 疲れた?

そんなもの、全部、価値がある。

もう二度と、屠られるだけの羊にはならない。

呼吸を整え、心拍のリズムを掴む。

そして、ある一拍で――指が沈む。

バン! バン! バン! バン! バン!

マガジンが空になるまで、乾いた音が広い室内に規則正しく跳ね返った。

綾香は銃を下ろし、ボタンを押す。

的紙が、うぃん……と静かに戻ってくる。

気づけば小原が、背後に立っていた。

20メートル先の人型標的。その心臓部に、弾痕が固まっている。

致命傷に足る、驚くほど狭い範囲へ。

外れなし。

小原は的紙を見つめ、それから横の少女を見た。

七日で、ゼロからここまで――。

努力だけで片づく域じゃない。

(……神様よ)

自分の教え子が、生まれついての撃ち手だなんて。

綾香は弾痕を見つめ、ゆっくり息を吐いた。

七日分の血と汗が、そこに形になっている。

胸の奥が、熱くうねる。

誇らしさが込み上げる。

――やっと。確かに。力を、掴んだ。

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