第5章
小原は大きく息を吸い込み、胸の奥の揺れをねじ伏せてから一歩踏み出した。声には抑えきれない高揚が滲む。
「……お前さ。その才能、仕事にする気はないのか」
渡部綾香の動きが、ぴたりと止まる。視線だけを上げて小原を見たが、熱を帯びた様子はない。最初から、その気がないのがわかった。
それでも小原は、拒まれるのが怖いのか、早口になった。
「俺が口利きできる。お前の腕と肝なら、間違いなくトップになれる。――」
一拍、言葉を濁す。互いに意味が通じる、遠回しな呼び名で置き換えた。
「スイーパーだ。稼ぎは桁が違う。想像以上に、な」
要するに、殺し屋。
渡部綾香は手入れを終えた拳銃をホルスターに収め、スポーツジャケットのジッパーを上まで引いて、それを隠した。
小原を見て、首を横に振る。
「お気持ちは嬉しい。小原。でも、私、お金に困ってないの」
それに――殺すことが好きなわけでもない。撃つ練習をしているのは、ただ自分が傷つかないためだ。
言葉どおりでもある。
祖父が残した秘匿資産は、林野正明に大半を呑まれたあとですら、暮らしに困らないだけの額が残っていた。彼女が欲しいのは金ではない。復讐を成し遂げるための、力と土台だ。
小原の目に、大きな悔恨が走る。
この娘は本気だ。金への無関心は、取り繕いじゃない。
「もったいねぇ……ほんと、もったいねぇ……」
呟いたあと、小原は腹を括ったように顔を上げた。
「なら、これからはトラに来い。俺が見てやる。タダでだ。お前って刃が、最後にどこまで研ぎ澄まされるのか――それが見たい」
渡部綾香の口角が、ほんの僅かに動く。返事と呼べるほど薄い反応。
「……ありがとう」
それ以上は言わず、彼女は射撃場を出ていった。
細い背中。それでも芯は真っ直ぐで、冬の風のなか黙って伸びる矢竹みたいだった。
小原はその背を見送りながら、理由もなく確信する。彼女は埋もれない。いつか必ず、大物になる。
トラクラブを出るころ、外はもう灯りがともり始めていた。
工業地帯の夜には、荒涼とした静けさがある。
渡部綾香はいつものように渡部家へ車を呼ばず、人通りの少ない路地へ折れた。辿り着いたのは、いかにも胡散臭い客が出入りし、身分確認も要らなそうなネットカフェ。
いちばん端の席の端末を選び、彼女は手早く一見ただのUSBメモリを挿す。複雑な暗号化プログラムが自動で走り、画面が切り替わった。
接続先は、まったく別のネットワーク――闇網。
ログイン名、ノル。
祖父が残した、最後の切り札。林野正明ですら知らなかった、すでに沈黙した闇夜組織に属する最高権限アカウント。
祖父は言っていた。これは危難のとき命を守るためのものだ。よほどのことがない限り、起動するな――と。
前世では、起動する機会すらないまま死んだ。
今が、その「よほど」だ。
画面は拍子抜けするほど簡素で、違法ソフトかと疑うくらい機能が少ない。いくつかの項目だけが並んでいる。
彼女は組織ステータスを開いた。
表示は、休眠。
そして残高の横に並ぶゼロの列に、覚悟していたはずの瞳がわずかに縮む。
小さな経済圏なら揺さぶれる――そんな桁の数字。
権限レベルは、はっきりと記されていた。至高。
迷いは一切ない。指先がキーを叩き、起動命令を選ぶ。
闇夜――覚醒。
冷たい電子音が、脳内に響いた気がした。
この瞬間から、眠っていた力が回り出す。見えない網が再び結び直される。
続けて、彼女は任務発行システムを開いた。
これが、この力を動かす最初の一手。
目標、周防文哉。
内容、右手の小指を第一関節分。実行過程は指定の暗号チャンネルへ全編生配信。
確認。発行。
やるべきことを終えると、渡部綾香は迷いなくログアウトし、USBメモリを抜き、閲覧痕跡をすべて消した。
立ち上がり、煙のこもる店内を抜ける。夜の街の影へ、すっと溶けていった。
表情は一切、動かない。瞳のいちばん奥だけが、凍てつくように冷たい。
周防文哉。まずはその指からだ。
前世、お前が私に与えた痛みのすべてに対する――最初の徴収。取るに足らない利息。
渡部綾香は知らない。
彼女がノルを起動し、任務を投げたその瞬間。どこかの地下深く、秘匿基地の奥で耳を裂く警報が鳴り響き、赤い回転灯が無言で回り始めたことを。
合金の円卓を囲み、組織の今後を巡って顔を真っ赤にして言い争っていた五人が、一斉に黙る。
視線は、主モニターに跳ねた。
そこに浮かんだのは、最高権限の通知枠。
闇夜組織・最高権限アカウント【ノル】、起動。
状態、休眠解除。
新規任務、発行。
短い沈黙のあと、爆ぜるような騒ぎが起こる。
「あり得ねぇ! ノルさんはもう死んでる!」
代号サンダーブライト。巨体の禿頭の男が卓を叩き、信じられないと叫んだ。
代理首領――金縁眼鏡の、穏やかな顔つきの中年。代号バイパーは、目の奥に一瞬だけ濁りを走らせたが、声は落ち着いていた。
「アカウントと権限は偽装できない。……ノルさんには、我々の知らない保険があったということだろう」
その場で唯一の女、シベットが身を乗り出す。
「任務を発行したのは誰? 位置は割り出せる? 今すぐ身元を確認しないと!」
技術担当の副官、代号ドクター。髪の跳ねた若い男がコンソールを叩き、息を詰めて操作する。だがほどなく、悔しそうに首を振った。
「無理です。権限が至高。発行元は多重の最上級暗号と物理的な跳躍を噛ませてる。追跡できない……残ってるのは任務情報だけ」
彼は任務詳細を主モニターへ投影した。
目標は周防文哉。内容は指を落として配信。だが賞金だけが、常識外れの額。
サンダーブライトが鼻で笑う。
「なんだこれ。ガキの遊びか? 闇夜の力で、こんな小物を相手にするってのかよ」
だがシベットは眉を寄せた。
「問題は任務の中身じゃない。発行者よ。ノルさんの至高権限を持ってる。これが何を意味するか、わからないの?」
静かに、シャドウブレードが口を開いた。低い声。
「組織の本当の主が……現れたってことだ」
空気が、もう一度固まる。
バイパーが眼鏡を指で押し上げ、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「諸君、冷静に。突然出てきた、真偽もわからない権限保持者に、ここまで振り回される必要があるのか? ノルさんが亡くなる前、組織は私が暫定で――」
「暫定は暫定だろ、バイパー!」
サンダーブライトがかぶせる。
「本物が出てきたなら、見つけて身元確認して、指示を仰ぐ。それがノルさんへの忠誠ってもんだ!」
シベットも即座に頷く。
「私も賛成。闇夜がいつまでも群龍無首でいいわけがない。創設者の意思にも背けない」
シャドウブレードは何も言わない。ただ、その目が答えだった。
ドクターもおずおずと手を挙げる。
「技術と権限階層の観点から言うと……アカウントの真偽は、ほぼ疑いようがないと思います」
