第6章

バイパーは、目の前でほとんど満場一致に傾いた四人を睨みつけ、胸中で苦いものを噛み潰した。だが口元には、仕方ないと言わんばかりの笑みを浮かべる。

「わかった、わかった。みんながそう言うならな。――なら当面の最優先は、この謎のノルを見つけることだ。ドクター、手持ちのリソースを総動員しろ。任務情報を洗って、少しでも手がかりになりそうなものを拾え。シベットは情報網を回せ。ノルさんに繋がる可能性のある『継承者』を片っ端から洗い出せ。サンダーブライト、シャドウブレードは準備。標的を絞った瞬間、即応が必要だ」

「了解!」

四人の声が重なり、散った。

忙しなく動き出した背中を見送りながら、バイパーの目がじわりと沈む。

長年かけて地盤を整え、ようやく――首領の死を待ち、闇夜の力を少しずつ掌に収めてきたのだ。突然湧いた継承者などという存在に、すべてを台無しにされてたまるか。

ノルが何者だろうと、必ず見つけ出す。

そして見つけた先で、忠誠か――それとも排除か。

決めるのは、他の誰でもない。

渡部綾香が渡部家の門をくぐった瞬間、空気がずしりと肩にのしかかった。

リビングでは、林野正明が主位のソファに深く腰を下ろし、顔色は鉛のように重い。隣には木村晴美。心配しているふりで口を挟みかねている表情だ。少し離れたところに林野佳恵が立ち、目の縁が赤い。泣いた痕。

「まだ帰ってくる気があったのか」

抑え込んだ怒りを滲ませ、林野正明が渡部綾香を睨んだ。

綾香は足を止めない。何事もなかったかのように階段へ向かう。

「止まれ!」

林野正明が声を荒げた。

「ここ数日、朝も夜も姿がない。どこで何をしていた? また周防家のあの男に会いに行ってたんじゃないだろうな。いいか、鈴宮家との縁談はもう決まっている。お前の気まぐれで掻き回すことは許さん!」

そこでようやく、綾香は足を止めた。ゆっくり振り返り、三人を一巡させる。最後に林野正明へ視線を置くと、薄く、嘲るような光が滲んだ。

その一瞬を見逃さず、林野佳恵が前へ出る。声は涙混じりだ。

「お姉ちゃん……つらいのはわかるよ。鈴宮さんみたいな人と結婚したくないって思うのも……でも、だからってこっそり外で他の人に会うなんて……。鈴宮さんの耳に入ったら、渡部家はどうするの? お父さんだって、お姉ちゃんのために言ってるんだよ。間違った道に行かないようにって……」

木村晴美も、タイミングよくため息を落とす。

「綾香。女の子は名が一番よ。意地を張っていいことなんてないわ」

……見事な連携。

綾香は内心で冷笑した。これが家族。父。幼い頃から一緒にいたはずの子。いつも優しかったはずの世話役。

祖父が亡くなってから、まるで別人のようだ。

「会ってないわ」

周防文哉への憎しみを、表に出すわけにはいかない。彼に何かが起きたとき、真っ先に疑われるのは自分だ。

綾香は淡々と言葉を続ける。

「お父さま。私が鈴宮さんの婚約者になったあとで、どこの男が私をデートに誘えると思うの?」

林野正明は眉間に皺を寄せ、まだ疑いを捨てきれない。

「なら、いったい何をしていた。適当な言い訳で俺を誤魔化せると思うな」

想定どおりの追及だった。

綾香は顔色ひとつ変えずに返す。

「何って……鈴宮さんよ。向こうから呼び出されてたの」

「鈴宮京也が? お前を?」

林野正明が目を見開く。疑念がさらに濃くなった。

「いつだ。どこで会っている」

鈴宮京也が、なぜ渡部綾香との結婚を望むのか。それだけでも不可解だったのに、まさか頻繁に呼び出していると言うのか。

林野正明は初めて、男が女を値踏みする目で綾香を見た。――確かに、美しい。亡き妻に似た顔立ち。そのせいで、彼はこの娘を遠ざけてきたのだ。

「時間も場所も決まってない」

綾香はわざとらしく小さな苛立ちを滲ませた。

「ああいう人が、お父さまに逐一お伺いを立てると思う? 迎えが来て、連れていかれて、向こうの場所で少し過ごすだけ」

「向こうの場所だと? どんなところだ」

細部を掴もうとする声。

綾香の脳裏に、暗い部屋で見た一瞬の輪郭と、圧だけを残す背中がよぎる。眉を寄せ、思い出すように言った。

「広くて……空っぽに近い。余計なものが置いてない。あと、鈴宮さんは……煙草の匂いがすごく強かった。それに……墨色の刺青が、背中から腕まで続いてて……正直、怖かった」

刺青。薄暗い空間。人を寄せつけない気配。

林野正明が、これまでかき集めた鈴宮京也の断片的な噂と、ぴたりと重なる。確かに鈴宮京也は刺青がある。行動も秘匿され、表に出ない。

林野正明の怒気が、揺らぎに変わる。

渡部綾香の顔には、従わされているような諦めと、苛立ちと、わずかな怯えが同居していた。演技には見えない。

もし本当なら――この縁談の価値は、想像以上だ。

林野正明の表情はみるみる和らぎ、ぎこちないほどの笑みさえ浮かべた。

「……そうだったのか。綾香、なぜ早く言わない。鈴宮さんがお前を呼ぶのはいいことだ。お前を重く見ている証拠だろう」

声色まで変え、あっさりと言い切る。

「今後も鈴宮さんに呼ばれたら、遠慮せず行け。家は止めない。ただし……分別は守れ。まだ正式に結婚したわけじゃないんだからな」

林野佳恵と木村晴美の顔が固まった。数言で疑いを払い、むしろ父の態度をひっくり返したのだから当然だ。

「お父さん!」

佳恵が食い下がろうとする。

「もういい」

林野正明が遮った。先ほどまでの苛立ちは、娘ではなく佳恵に向いている。

「綾香は渡部家のために動いている。お前たちは余計な憶測をするな」

そして綾香に向き直り、優しいふりの声音で告げる。

「疲れているだろう。早く休め」

綾香は小さく頷き、顔色の悪い母娘を一瞥すらせずに階段を上った。

そのとき、掌の中のスマホがぶるりと震えた。画面に浮かぶのは、暗号化された意味を持たない文字列。

綾香の瞳に冷たい光が走る。

――かかった。

周防文哉に向けた「指を落とせ」という依頼を流した際、暗号の情報流の奥に、七重に偽装した連絡ノードをわざと残していた。試しであり、選別でもある。闇夜の中にまだ腕の立つ者がいるなら、必ず辿り着ける。

逆に言えば、それができない組織に価値はない。

どうやら、闇夜はまだ完全には腐っていない。

綾香は窓辺へ寄り、周囲に人がいないのを確かめてから通話を滑らせた。

「ノル」

加工された電子音が、前置きなく用件だけを投げてくる。

「指令は実行済み。映像は暗号化スペースへ送付した」

手際は悪くない。

綾香の目がわずかに陰る。

「確認した」

彼女の声も同様に加工を通し、性別の手がかりを消してある。

相手は半秒、沈黙した。反応を測っている。身元の確信を固めている。

「中枢メンバーが面談を要請している」

綾香は迷わなかった。望んだとおりの展開だ。

「時間と場所」

返ってきたのは、廃港区にある倉庫の座標。それと、一時間後。

「時間どおり行く」

綾香はそれだけ言い、通話を切った。

暗くなった画面を見つめ、口元に氷のような弧が刻まれる。

――闇夜。迎えに来たわ。

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