第6章
バイパーは、目の前でほとんど満場一致に傾いた四人を睨みつけ、胸中で苦いものを噛み潰した。だが口元には、仕方ないと言わんばかりの笑みを浮かべる。
「わかった、わかった。みんながそう言うならな。――なら当面の最優先は、この謎のノルを見つけることだ。ドクター、手持ちのリソースを総動員しろ。任務情報を洗って、少しでも手がかりになりそうなものを拾え。シベットは情報網を回せ。ノルさんに繋がる可能性のある『継承者』を片っ端から洗い出せ。サンダーブライト、シャドウブレードは準備。標的を絞った瞬間、即応が必要だ」
「了解!」
四人の声が重なり、散った。
忙しなく動き出した背中を見送りながら、バイパーの目がじわりと沈む。
長年かけて地盤を整え、ようやく――首領の死を待ち、闇夜の力を少しずつ掌に収めてきたのだ。突然湧いた継承者などという存在に、すべてを台無しにされてたまるか。
ノルが何者だろうと、必ず見つけ出す。
そして見つけた先で、忠誠か――それとも排除か。
決めるのは、他の誰でもない。
*
渡部綾香が渡部家の門をくぐった瞬間、空気がずしりと肩にのしかかった。
リビングでは、林野正明が主位のソファに深く腰を下ろし、顔色は鉛のように重い。隣には木村晴美。心配しているふりで口を挟みかねている表情だ。少し離れたところに林野佳恵が立ち、目の縁が赤い。泣いた痕。
「まだ帰ってくる気があったのか」
抑え込んだ怒りを滲ませ、林野正明が渡部綾香を睨んだ。
綾香は足を止めない。何事もなかったかのように階段へ向かう。
「止まれ!」
林野正明が声を荒げた。
「ここ数日、朝も夜も姿がない。どこで何をしていた? また周防家のあの男に会いに行ってたんじゃないだろうな。いいか、鈴宮家との縁談はもう決まっている。お前の気まぐれで掻き回すことは許さん!」
そこでようやく、綾香は足を止めた。ゆっくり振り返り、三人を一巡させる。最後に林野正明へ視線を置くと、薄く、嘲るような光が滲んだ。
その一瞬を見逃さず、林野佳恵が前へ出る。声は涙混じりだ。
「お姉ちゃん……つらいのはわかるよ。鈴宮さんみたいな人と結婚したくないって思うのも……でも、だからってこっそり外で他の人に会うなんて……。鈴宮さんの耳に入ったら、渡部家はどうするの? お父さんだって、お姉ちゃんのために言ってるんだよ。間違った道に行かないようにって……」
木村晴美も、タイミングよくため息を落とす。
「綾香。女の子は名が一番よ。意地を張っていいことなんてないわ」
……見事な連携。
綾香は内心で冷笑した。これが家族。父。幼い頃から一緒にいたはずの子。いつも優しかったはずの世話役。
祖父が亡くなってから、まるで別人のようだ。
「会ってないわ」
周防文哉への憎しみを、表に出すわけにはいかない。彼に何かが起きたとき、真っ先に疑われるのは自分だ。
綾香は淡々と言葉を続ける。
「お父さま。私が鈴宮さんの婚約者になったあとで、どこの男が私をデートに誘えると思うの?」
林野正明は眉間に皺を寄せ、まだ疑いを捨てきれない。
「なら、いったい何をしていた。適当な言い訳で俺を誤魔化せると思うな」
想定どおりの追及だった。
綾香は顔色ひとつ変えずに返す。
「何って……鈴宮さんよ。向こうから呼び出されてたの」
「鈴宮京也が? お前を?」
林野正明が目を見開く。疑念がさらに濃くなった。
「いつだ。どこで会っている」
鈴宮京也が、なぜ渡部綾香との結婚を望むのか。それだけでも不可解だったのに、まさか頻繁に呼び出していると言うのか。
林野正明は初めて、男が女を値踏みする目で綾香を見た。――確かに、美しい。亡き妻に似た顔立ち。そのせいで、彼はこの娘を遠ざけてきたのだ。
「時間も場所も決まってない」
綾香はわざとらしく小さな苛立ちを滲ませた。
「ああいう人が、お父さまに逐一お伺いを立てると思う? 迎えが来て、連れていかれて、向こうの場所で少し過ごすだけ」
「向こうの場所だと? どんなところだ」
細部を掴もうとする声。
綾香の脳裏に、暗い部屋で見た一瞬の輪郭と、圧だけを残す背中がよぎる。眉を寄せ、思い出すように言った。
「広くて……空っぽに近い。余計なものが置いてない。あと、鈴宮さんは……煙草の匂いがすごく強かった。それに……墨色の刺青が、背中から腕まで続いてて……正直、怖かった」
刺青。薄暗い空間。人を寄せつけない気配。
林野正明が、これまでかき集めた鈴宮京也の断片的な噂と、ぴたりと重なる。確かに鈴宮京也は刺青がある。行動も秘匿され、表に出ない。
林野正明の怒気が、揺らぎに変わる。
渡部綾香の顔には、従わされているような諦めと、苛立ちと、わずかな怯えが同居していた。演技には見えない。
もし本当なら――この縁談の価値は、想像以上だ。
林野正明の表情はみるみる和らぎ、ぎこちないほどの笑みさえ浮かべた。
「……そうだったのか。綾香、なぜ早く言わない。鈴宮さんがお前を呼ぶのはいいことだ。お前を重く見ている証拠だろう」
声色まで変え、あっさりと言い切る。
「今後も鈴宮さんに呼ばれたら、遠慮せず行け。家は止めない。ただし……分別は守れ。まだ正式に結婚したわけじゃないんだからな」
林野佳恵と木村晴美の顔が固まった。数言で疑いを払い、むしろ父の態度をひっくり返したのだから当然だ。
「お父さん!」
佳恵が食い下がろうとする。
「もういい」
林野正明が遮った。先ほどまでの苛立ちは、娘ではなく佳恵に向いている。
「綾香は渡部家のために動いている。お前たちは余計な憶測をするな」
そして綾香に向き直り、優しいふりの声音で告げる。
「疲れているだろう。早く休め」
綾香は小さく頷き、顔色の悪い母娘を一瞥すらせずに階段を上った。
そのとき、掌の中のスマホがぶるりと震えた。画面に浮かぶのは、暗号化された意味を持たない文字列。
綾香の瞳に冷たい光が走る。
――かかった。
周防文哉に向けた「指を落とせ」という依頼を流した際、暗号の情報流の奥に、七重に偽装した連絡ノードをわざと残していた。試しであり、選別でもある。闇夜の中にまだ腕の立つ者がいるなら、必ず辿り着ける。
逆に言えば、それができない組織に価値はない。
どうやら、闇夜はまだ完全には腐っていない。
綾香は窓辺へ寄り、周囲に人がいないのを確かめてから通話を滑らせた。
「ノル」
加工された電子音が、前置きなく用件だけを投げてくる。
「指令は実行済み。映像は暗号化スペースへ送付した」
手際は悪くない。
綾香の目がわずかに陰る。
「確認した」
彼女の声も同様に加工を通し、性別の手がかりを消してある。
相手は半秒、沈黙した。反応を測っている。身元の確信を固めている。
「中枢メンバーが面談を要請している」
綾香は迷わなかった。望んだとおりの展開だ。
「時間と場所」
返ってきたのは、廃港区にある倉庫の座標。それと、一時間後。
「時間どおり行く」
綾香はそれだけ言い、通話を切った。
暗くなった画面を見つめ、口元に氷のような弧が刻まれる。
――闇夜。迎えに来たわ。
