第1章

「希実……」

情が昂りきったその瞬間、緒方廷治は――松本霞澄を抱きながら、姉の名を呼んだ。

屈辱の涙が霞澄の目尻からつうっと落ちる。けれど彼女は、しばらくしてから従順に腕を回し、彼の身体をきつく抱き返した。

三年前。松本希実は海に身を投げた。

死の間際、最後にかけた電話は霞澄宛てだった。だがあのとき霞澄は研究室にいて、着信に気づかなかった。

希実を心の底から愛していた緒方廷治は、その責任を霞澄に押しつけた。

退学を強要し、希実の真似をさせ、陽の当たらない愛人にした。

霞澄は泣きも喚きもしない。ただ彼の怒りを受け止め続けた。

自分自身もまた、あの電話に出られなかったことを悔いていたから。

熱が冷めると、廷治は冷淡に身を起こし、避妊薬を霞澄の身体に放った。

疲れきった身体を支えながら、錠剤を無理やり飲み込む。喉の奥がむかむかして、吐きそうになる。

最近、胃の具合が悪いのか――とにかく吐き気がひどい。

十分以上も手間取っていると、緒方家の執事が迎えに来て促した。

緒方廷治は決して、霞澄を自分の家に泊めない。どれだけ遅くなろうと、どれだけ疲れていようと、彼女は出ていかなければならなかった。

彼にとって霞澄は、呼べば来て、用が済めば捨てる玩具。

胸に刻んだ初恋を弔うための代用品にすぎない。

霞澄は黙々と支度を早めた。

緒方家の門を出て、癖のように振り返る。

二階の窓辺に、すらりとした影が見えた気がした。

目の奥の痛みをこすり、もう一度見る。そこには誰もいない。

霞澄は自嘲気味に笑った。

――幻だ。あの人は私を憎むことで手一杯だ。見送るはずがない。

一時間後、霞澄は松本家に戻った。

玄関を入った瞬間、茶碗が飛んできて、額にどん、と当たる。

鮮血が白い額を伝い、あっという間に整った顔を汚した。

だが松本奥さんは微塵も痛まなかった。指を突きつけ、怒鳴り散らす。

「役立たず! 男ひとり繋ぎ止められないなんて。あのとき死んだのが、どうしてあんたじゃないの!」

胸がぎゅっと痛んだ。

姉の死は、もともと温厚だった緒方廷治を偏執と暴虐に変えた。

それだけじゃない。実の両親までも、苛立ちをぶつける存在に変えてしまった。

そして霞澄は、罪の元凶として黙って受け続ける。

奥さんは新聞を霞澄に叩きつけた。大見出しが目に刺さる。

【緒方・新谷両家、近く婚姻へ。帝都資本、勢力図激変か】

その瞬間、息が止まった。

緒方廷治が……結婚?

一生憎む、死ぬまで苦しめると言い捨てた男が、別の女を娶る?

――それはつまり。ようやく憎しみを手放し、私を解放してくれるということ?

虚しさ、軽さ、そして胸の奥に隠れていた、ほんのわずかな悔しさが一気に押し寄せる。

「パァン!」

呆然としていた霞澄の頬を、奥さんの平手が打った。

「聞いてるの? 黙って何よ! 希実が死ぬ前だって、あんたなんかに助けは求められなかった。彼氏ひとりも守れないなら、生きてる価値ある?」

愛娘を失った母は、狂ったみたいだった。

泣き叫び、霞澄を家から叩き出し、緒方廷治に頭を下げて翻意させて来いと命じる。

「できないなら、二度と帰ってくるな!」

追い出された霞澄は、月光を見上げた。

額の傷はじくじく痛むのに、胸の痛みのほうがずっと重い。

――こんな贖罪の日々が、まだ続くのだろうか。

霞澄は緒方廷治に電話をかけた。繋がらない。

いつだって彼から呼ばれるだけで、彼女から連絡を取る術はない。

最後に、彼の助手へ伝言を残した。

三十分後、親友の羽田絵亜が霞澄を拾い、家に連れ帰った。

傷口を丁寧に処置し終えたところで、絵亜は堪えきれず爆発する。

「ほんっとムカつく! あんたのお姉さんがいなくなって何年よ。まだそんな扱い? あれは自殺でしょ。責任って言うなら、みんなにある。なんであんただけ!」

霞澄は絵亜の手を握り、静かに首を振った。

表向きは明るく派手だった姉が、裏で重度のうつだった。

それに気づけなかった自分は、妹として失格だと思っている。

そして、出られなかったあの電話。あれもまた、喉に刺さった棘だ。

この罪は、自分で背負いたい。

説得できなかった絵亜は、はぁっと大きくため息をつく。

少し考え、霞澄の手首をぐっと掴んだ。

「もう、今夜は全部忘れよ。連れ出してやる。騒ぐ!」

絵亜は有無を言わさず霞澄を帝都最大のバーへ連れて行き、若いホストを四人も呼んだ。

霞澄は慣れない空気に落ち着かず、すぐ「トイレ」と席を外した。

鏡の前で髪を整えていると、緒方廷治から電話が鳴った。

「俺に何の用だ」

相変わらず氷みたいに硬い声。

霞澄は思わず背筋を伸ばす。

「あの……新谷明珠さんと、結婚するんですか」

沈黙のあと、嘲るような笑いが返ってきた。

「それを聞いてどうする」

どうする――。

母の望むみたいに、尊厳を捨てて「結婚しないで」と泣きつく?

できない。

結局、震える声で言った。

「……あなたが結婚するなら。私たち、終わりにできますか」

当たり前のはずなのに、廷治は大笑いでも聞いたかのようだった。

「終わり? 松本霞澄、どんな夢見てる」

身体が固まった。

結婚しても終わらせない?

私を、浮気相手のまま飼うつもり?

屈辱は底だと思っていた。けれど彼は、さらに深い穴を掘る。

「……どうしたら、放してくれるんですか」

廷治は冷笑した。

「希実を生き返らせたらな」

通話が切れる。

霞澄は鏡に映る憔悴した自分を見つめ、底なしの絶望に沈んだ。

――死にたい。

そのとき、外から聞き覚えのある声がした。

「いやぁ、ほんと冗談のつもりだったのにさ。まさかみんな本気にするなんて」

「このままだと緒方廷治が別の女と結婚しちゃうじゃん。そしたら私、完全にやらかしたことになるし」

「三年もチャンス与えたのに、あの妹ほんと使えない。男の心ひとつ掴めないんだもん」

「パパもママも最初から知ってたよ。うまく丸めてくれるって。緒方廷治? あんなに私のこと好きなんだから、ちょっと甘えればいいだけ」

「じゃ、トイレ行くから切るね」

全身が氷水に沈んだみたいに震えた。

松本希実――生きている?

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