第1章

「希実……」

情が昂ったその瞬間、緒方廷治は松本霞澄を抱いたまま――姉の名を呼んだ。

どうして。

どうして、この人は私と交わりながら、希実の名前を呼べるの。

屈辱が氷のような波になって、一瞬で松本霞澄を呑み込む。拒む間もなかった。次の瞬間には脚をさらに大きく割られ、乱暴に、深く突き入れられる。

「ぁ――!」

堪えきれず悲鳴が漏れた、そのとき。

「声を出すな。似なくなる」

緒方廷治の大きな手が口を塞ぐ。端正な眉目には欲が滲んでいるのに、その奥にはたしかな嫌悪もあった。

その瞬間、松本霞澄の心はすうっと冷えきった。

三年前。

希実は海へ身を投げた。死の間際、最後に電話をかけた相手は松本霞澄だった。けれど彼女は研究室にいて、電話に気づけなかった。

希実を深く愛していた緒方廷治は、そのすべての罪を松本霞澄に背負わせた。

退学を強い、希実の真似を強い、姉の代わりを務める存在へと作り変えた。

松本霞澄には逆らえなかった。ただ黙って、彼の怒りを受け止め続けるしかない。

自分自身もまた、あの電話に出られなかったことを、心の底から悔いていたから。

一方的で荒々しい行為が終わると、緒方廷治は未練ひとつ見せずに身を起こした。長い指でシャツのボタンを留める仕草は、どこか気だるく、あまりにも無造作だった。

「飲め」

放られたのは、避妊薬の箱。

かつてはあれほど緒方廷治に心を奪われていたのに、今はそのぶんだけ苦しい。

松本霞澄はいつものように箱を開け、薬を喉に押し込む。途端に胃の奥がぐっとせり上がり、吐き気が込み上げた。

このところずっと胃の調子が悪い。空えずきや胸のむかつきが続いている。

時間を見つけて、病院に行かなければ――そう思っていた。

けれど少し手間取っただけで、緒方家の執事がすぐに迎えに来て、退出を促した。

緒方廷治は決して、松本霞澄をここに泊めない。

どれだけ遅くても、どれだけ疲れていても、彼女は必ず出て行かされる。

彼にとって松本霞澄は、忘れられない恋を悼むための代用品。

欲のはけ口。

呼べば来て、用が済めば追い払うだけの身代わりだった。

松本霞澄は門を出て、ふと振り返る。

二階の窓辺に、背の高い人影が立っているように見えた。

けれど目を凝らした次の瞬間、そこにはもう誰もいない。

松本霞澄は唇の端だけで、自嘲気味に笑った。

緒方廷治が自分を気にかけるはずがない。

あの人は、私を憎んでいるのだから。

一時間後、松本霞澄は松本家へ戻った。

リビングに足を踏み入れた途端、陶器のカップが真正面から飛んできた。こつん、と鈍い音を立てて額の端にぶつかる。

次の瞬間、温かい血がつうっと流れ落ち、視界をにじませた。

だが、母の松本奥は眉ひとつ動かさない。痛ましげな色など欠片もなく、鋭い声で怒鳴りつける。

「役立たず! 男ひとり繋ぎ止められないなんて。あのとき死んだのが、どうしてあんたじゃなかったの!」

何度聞いても、胸はきつく締めつけられる。

母親は、どれほど自分の子を嫌えば、こんな言葉を吐けるのだろう。

希実の死は、かつて意気揚々としていた緒方廷治を偏執的で陰鬱な男に変えただけではない。

実の両親までも、苛立ちをぶつける存在に変えてしまった。

そして松本霞澄は、誰もが指差す元凶として、ただ黙って受け止めるしかなかった。

松本奥は新聞を彼女の体へ叩きつけた。

一面の大きな見出しが、目に刺さる。

【緒方・新谷両家、近く婚姻へ。帝都資本、勢力図激変か】

その瞬間、松本霞澄は息をすることさえ苦しくなった。

緒方廷治が――結婚する。

一生かけて償わせると吐き捨てた男が、別の女を娶る?

それはつまり。

ようやく憎しみを手放し、自分を解放してくれるということなのだろうか。

解放感。虚しさ。戸惑い。

それから、自分でも気づいていなかった、ほんのわずかな悔しさ。

それらが胸の内でぐちゃぐちゃに絡み合った、そのとき。

ぱしん、と乾いた音が響いた。

気を失いかけていた松本霞澄の頬を、松本奥の平手が打ったのだ。

「何ぼうっとしてるの! 返事ぐらいしなさい! 希実を死なせたうえに、緒方君まで繋ぎ止められないなんて。あんた、生きてる意味あるの?」

怒りに呑まれた母は、そのまま松本霞澄を玄関まで突き飛ばした。そして緒方廷治の気が変わるよう、泣いてでも縋りついてこいと命じる。

「できないなら、帰ってこなくていい!」

家から追い出された松本霞澄は、頼るものもなく月を見上げた。

額の傷はじくじく痛む。けれど、胸の痛みのほうがずっと深い。

こんな償いの日々は、いったいいつ終わるのだろう。

松本霞澄は緒方廷治に電話をかけた。

だが、繋がらない。

昔からずっとそうだった。

彼は自分を呼びつけることはあっても、彼女が彼に連絡を取る術はほとんどない。

最後に、緒方廷治の助手へ伝言だけを残した。

三十分後。

親友の羽田絵亜が、見るも無残な彼女を迎えに来て、自宅へ連れ帰った。

羽田絵亜は傷を丁寧に手当てし終えると、とうとう怒りを堪えきれず声を荒げる。

「ひどすぎるでしょ! 希実さんが亡くなって何年経ってると思ってるの? まだあんな扱いするなんて。あれは自殺だったんだよ、事故みたいなものでしょ。あんたのせいじゃない! なんで責任を全部あんたひとりに押しつけるのよ!」

霞澄は絵亜の手をそっと握り、静かに首を横へ振った。

表向きは明るくて朗らかだった姉が、裏では重い鬱に苦しんでいた。

そのことに、妹である自分がまるで気づけなかった。

そう思うだけで、自分はひどく失格な妹に思えた。

そして何より、あの一本の不在着信。

あれが、今も彼女の胸に刺さったままの棘だった。

この責任だけは、自分で背負いたい。

そう思ってしまう。

説得を諦めた絵亜は、大きくため息をついた。

それから少し考え込み、ぐっと松本霞澄の手首を掴む。

「もういい! こんな嫌なこと、今夜だけは忘れな。あたしが連れ出してあげる!」

絵亜は半ば強引に松本霞澄を帝都最大のバーへ連れて行き、そのうえ若くて見栄えのいい男たちまで何人か呼び寄せた。

少しでも気を紛らわせようとしたのだ。

けれど松本霞澄は、そんな華やかな空気にどうしても馴染めない。

座ってまもなく、「お手洗いに」と言って席を立った。

鏡に向かい、自分の顔を見つめる。

整ってはいる。けれど、ひどく青白い。

そのとき、不意にスマホが震えた。

画面に表示された名前を見て、息が止まる。

緒方廷治だった。

「俺に何か用か」

相変わらず冷たい声。

感情のぬくもりなど、ひとかけらもない。

松本霞澄は反射的に背筋を伸ばした。

「お聞きしたくて……新谷明珠さんと、ご結婚なさるんですか」

電話の向こうで短い沈黙が落ちる。

続いて聞こえてきたのは、嘲るような、軽い笑いだった。

「お前が、どんな立場でそんなことを聞く」

どんな立場で――。

松本霞澄は言葉を失った。

愛人ですらない。まして恋人でもない。

だからといって、母が望むように、尊厳をすべて捨てて泣きつくことなどできない。

結婚しないでほしいと縋るなんて、できるはずがない。

震える声をどうにか絞り出す。

「もし、ご結婚されるなら……私たち、もう終わりにできますか」

当然の願いのはずだった。

なのに緒方廷治は、まるで滑稽な冗談でも聞いたかのように笑う。

「松本霞澄、お前は何を夢見てる」

全身がこわばった。

結婚しても、終わらせない。

それでもなお、自分を縛りつけるつもりなのだ。

これ以上の屈辱はないと思っていた。

けれど彼は、いつだってその先を見せる。

「……どうすれば、私を放してくれるんですか」

緒方廷治は鼻で笑った。

「希実を生き返らせろ」

そのまま通話は一方的に切れた。

松本霞澄は手を下ろし、鏡に映る自分を見つめる。

ひどく疲れた顔。目元には、今にも崩れそうな絶望。

涙がぽろりと零れ落ちた。

もう、消えてしまいたい――そんな思いが再び胸をもたげる。

そのときだった。

トイレの外から、聞き覚えのある声がふいに耳へ飛び込んできた。

「最初はさ、ちょっとした悪ふざけのつもりだったんだよね。松本霞澄を困らせようと思っただけで、ここまで大ごとになるなんて」

全身がびくりと震える。

「私が早く戻らないと、廷治がほかの女と結婚しちゃうじゃない。そしたら完全に失敗でしょ? それにしても、あの妹ほんと役立たず。三年も猶予あげたのに、あの人の心ひとつ掴めないんだから」

頭の中が真っ白になる。

「お父さんもお母さんも、最初から知ってるよ。うまく説明してくれるって。廷治のこと? あの人、私のこと大好きなんだから、ちょっと甘えればそれで済むし」

その声に、聞き間違いようはなかった。

松本霞澄は目を見開く。

指先が、かたかたと震え出す。

希実――。

彼女が、生きている。

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