第3章
スマホの着信音が鳴り、松本霞澄はひとまず、あの居たたまれない気まずさから引き上げられた。
未着信はざっと数十件。羽田絵亜、両親、会社――そして緒方廷治。
当然、緒方廷治だけは一回きりだ。
彼は昔から、霞澄の前ではやけにプライドが高い。何度もかけ直すような真似はしない。
会社は無断欠勤の確認だろうし、両親はおそらく松本希実の件だ。
なら先に、羽田絵亜へ折り返す。
「やっと出た! 連絡つかないから、警察呼ぶとこだったんだけど!? どこ行ってたの!」
切羽詰まった声に、霞澄は首を傾げた。
「え……私、絵亜の家に――」
言いかけて、周囲を見回す。
そこでようやく気づいた。見知らぬ内装。羽田絵亜の部屋じゃない。むしろホテルみたいな、無機質で整った部屋。
――え、なにここ。
状況を擦り合わせて、やっと理解した。
昨夜、個室を間違えた挙げ句、ホストまで人違いしたらしい。
酔って暴れた記憶の断片が、頭の奥でバチバチと火花を散らす。
思い出すだけで、穴があったら埋まりたい。
なのに羽田絵亜は、別のところに食いついていた。
「でさ、その『いちばんイケメンのホスト』、そんなに良かったわけ? ならさ、もう緒方廷治なんてさっさと捨てて、その人に乗り換えなよ!」
霞澄は乾いた笑いを漏らす。
「冗談やめて。相手が誰かも分かんないし……今さら思い出すだけで、申し訳なさすぎる」
「大丈夫大丈夫。あたしが連絡してあげる!」
そう言い残し、羽田絵亜は勝手に通話を切った。
――嫌な予感しかしない。
けれど二日酔いの頭は鈍く、考えがまとまらない。霞澄はとりあえず身支度をして、会社へ向かった。
三年前。
退学へ追い込まれた霞澄は、緒方廷治の会社に入れられ、彼の専属補佐になった。
支配と屈辱のための首輪――そういう立場だ。
タクシーの後部座席で、霞澄は丁寧に声を出す。
「運転手さん、少しゆっくりお願いします。気持ち悪くて……」
昨日の酒のせいか、普段は酔いも車酔いもしないのに、胃がひっくり返りそうだった。
運転手は速度を落として窓を開ける。ひやりとした風が入り、吐き気がわずかに引いた。
これから、どうするべきか。
松本希実の言う通り、両親も緒方廷治も彼女の味方だ。
人生をめちゃくちゃにされたとしても、霞澄が「姉」に復讐できるわけがない。
両親に説明を求めたところで、どうせ無駄だ。
――せめて。
緒方廷治との、この歪で屈辱的な関係だけは終わらせたい。
会社に着くと霞澄は早足で中へ入り、人事に辞表を出すつもりでいた。
だがオフィスに入るなり、同僚の細川沙耶に呼び止められる。
重たい書類の束を、どさっと押しつけてきた。
「午前中なにしてたの? これ全部まとめて送って。2時間で」
周囲は誰も驚かない。
霞澄は仕事ができる。けれど皆が知っている。彼女は緒方社長の玩具で、出世なんてあり得ない。だから面倒は全部押しつけていい、と。
そして霞澄はこれまで、黙ってやってきた。
――でも、今日は違う。
霞澄は書類の束を、そのまま押し返した。
細川沙耶が固まる。
「松本補佐……それ、どういう意味?」
霞澄は表情を崩さない。
「自分でやって」
一斉に視線が上がる。
耳を疑った、という顔。
細川沙耶は怒気を孕んだ声で言い返した。
「は? 今なんて? もう一回言って」
霞澄は淡々と繰り返す。
「自分でやって。終わらないなら、やめれば?」
あちこちで息を呑む音がした。
短気な細川沙耶の堪忍袋は、その場で切れた。
「松本霞澄! 自分の立場分かってんの!? やめろだぁ? なに様のつもりよ。忘れたの? あんたはただの玩具でしょ!」
吐き捨てるように言い、書類をもう一度、霞澄の机へ投げる。
霞澄はそれを、床へ払い落とした。
細川沙耶は深く息を吸って、ゆっくりと言い放つ。
「拾って。謝りなさい。じゃないと緒方社長に告げ口するから!」
――告げ口したところで、緒方廷治が自分を守らないことくらい、霞澄がいちばん知っている。
社内でも、それは暗黙のルールだ。
霞澄は扉のほうへ手を向けた。
「どうぞ」
細川沙耶は言葉を失った。
本当に告げ口する勇気などない。では、松本霞澄はいったい何のつもりだ――。
そのとき、秘書課のドアが開いた。
現れたのは、緒方廷治。
空気が凍りつき、全員が慌てて立ち上がる。
「緒方社長、お疲れさまです」
緒方廷治は床に散った書類を一瞥し、面倒くさそうに命じた。
「松本霞澄、謝れ」
たったそれだけで、胸の奥がずきりと痛む。
何があったのかすら確認せず、彼女に頭を下げろと言うのだ。
――そうだ。
彼にとって自分は、価値のない存在。好き勝手に踏みにじっていい。
でも、それは「昨日まで」。
霞澄は細川沙耶の得意げな顔を正面から見据え、言った。
「細川補佐の落ち度です。私は謝りません。緒方社長がそう言っても」
細川沙耶の笑みが、ぴしりと凍る。
周囲は目を見開いた。
緒方廷治の眉が険しくなる。
「松本霞澄!」
警告と威圧が声に滲む。
霞澄は逃げずに見返した。
「はい」
ついに緒方廷治は堪えきれず、彼女の手首を掴むと、そのまま執務室へ引きずり込んだ。
乱暴に床へ放り投げる。
「命令に逆らうのか」
高級な絨毯が衝撃を吸ったせいで痛みはない。
霞澄はゆっくり立ち上がり、氷みたいに冷えた目で彼を見た。
「ええ。今から、あなたの言うことは聞きません」
胸の内が、妙に軽い。
爽快さすらある。けれどその奥に、ちくりとした痛みも残った。
緒方廷治の眼差しには、挑発された怒りだけが浮かんでいた。
ゆっくり近づき、顎を掴み上げて顔を上げさせる。
「俺の言うことを聞かない? 松本霞澄、姉を殺した人間に、そんな資格があるか」
霞澄は笑った。
「そうですね。姉を殺した人間には、資格なんてない」
――でも、松本希実は死んでいない。
緒方廷治の指に力がこもる。
危うさを嗅ぎ取ったように、低く問う。
「何が言いたい」
霞澄は拳を握りしめ、まっすぐ言った。
「緒方廷治。あなたと、別れます」
