第30章 修羅場

緒方廷治は両手をわずかに持ち上げたまま、松本希実の身体には触れなかった。

この瞬間も、頭に浮かんでいたのは松本霞澄のほうだ。

霞澄が同じように抱きついてきたときは、子猫みたいに顔を胸元へうずめてくる。希実みたいに必死で唇を尖らせ、こちらの頬にキスしようなんてしてこない。

「酔ってる。送っていく」

緒方廷治はついに堪えきれず、松本希実を自分の上から引きはがした。

片手で彼女の腕を掴む。倒れないように――そして、二度と近づかないように。

松本希実の心が、底へ沈んだ。

彼女は普段からバーを渡り歩いている。こんな酒の量で酔うはずがない。だからこそ、緒方廷治の眼底に浮かんだ「嫌悪」と「懐...

ログインして続きを読む