第4章
そう言い終えた瞬間、霞澄ははっきりと感じた。執務室の空気が、まるで凍りついたみたいに固まったことを。
緒方廷治の瞳の奥で、危険な冷たさが渦を巻く。
「……今、なんて言った?」
怒りを纏った彼は、いつだって人を震え上がらせる。
霞澄は唾を飲み込んだ。喉がきゅっと締まり、心臓の鼓動が耳の奥でうるさい。それでも、逃げなかった。震える息で、もう一度言い切る。
「私は……あなたの玩具にはならない。この関係、終わりにする!」
言葉が落ちた、その刹那。
ガンッ、と鋭い音。陶器のカップが飛んできて、足元で跳ね、床にぶつかって止まった。
跳ねた熱いコーヒーが足の甲に散り、ひりつく。けれど、その痛みは胸の奥の痛みに比べれば、あまりにも軽い。
緒方廷治の顔は、底なしに陰っていた。
「松本霞澄。お前は一生、希実を死なせた償いをして生きろ。自由になれるなんて、夢を見るな」
――いつもなら。
霞澄はそこで縮こまり、希実の身代わりとして黙って従った。痛みを抱えたまま、操り人形みたいに。彼の手のひらの上で、壊れるまで弄ばれるだけ。
けれど、今は違う。
霞澄は一歩も引かず、唇を噛んで言った。
「あなた、言いましたよね。姉さんが生きているなら、私を放すって。……言ったこと、守ってください」
それだけ言い残し、霞澄は踵を返した。
背中は相変わらず薄くて、頼りない。なのに――なぜだろう。緒方廷治の胸の奥に、言いようのない苛立ちが立ち上がる。同時に、滑稽だとも思った。
希実が生きている、だと?
馬鹿げている。正気じゃない。
緒方廷治は眉間を指で揉み、無理やり仕事に意識を戻そうとした。けれど、どこかで集中できない。心が、勝手に引っかかる。
霞澄がフロアに戻ると、床に散らばっていた書類はすでに片づけられていた。
同僚たちの視線が、ちくちく刺さる。好奇と値踏みと、探るような色。
当然だ。
今日の自分は、誰が見ても別人みたいなのだから。
霞澄は何事もなかったかのように席につき、細川沙耶の殺意じみた目を無視してパソコンを立ち上げた。午前中から溜まっていた業務を、淡々と捌いていく。
退勤間際、スマホがまた鳴った。
発信者は松本奥。
画面に灯る「母」の文字を見た途端、心臓が喉元までせり上がる。
希実の偽装死で、いちばん霞澄を傷つけたのは希実だけじゃない。
真実を隠し、冷えた顔で見て見ぬふりをして、緒方廷治に好き放題に踏みにじられるのを許した――両親だ。
どう向き合えばいいのか、霞澄は一日中考えても答えが出なかった。
けれど、逃げても何も変わらない。
悪いのは、自分じゃない。
霞澄は深く息を吸い、通話ボタンを押した。
受話口から飛んできたのは、松本奥の苛立ちに満ちた声だった。
「霞澄! 今までよくも電話に出られたわね!」
霞澄は口を開きかけた。けれど言葉より先に、涙がぽろりと落ちた。
慌てて手の甲で乱暴に拭い、必死に平静を作る。
「……何か用?」
その、いかにも他人事みたいな返しが、松本奥の神経をさらに逆撫でした。
「すぐ帰ってきなさい。話がある」
霞澄は唇をきゅっと結ぶ。
――内容は、だいたい分かる。
希実のことだ。
そして自分も、両親ときちんと話をつけなければならない。
四十分後。
霞澄が家のドアを開けた瞬間、最初に目に飛び込んできたのは、リビングのソファに寝そべってスマホを弄る希実だった。
シルクのネグリジェ姿。大きなポテトチップスの桶を抱え、片脚を無造作にテーブルへ乗せている。あまりにも気楽で、あまりにも当たり前みたいに。
胸の奥が、つんと酸っぱくなった。
自分はこの家で、こんなふうに緩んだことがない。少しでも気を抜けば、「淑女らしくない」「みっともない」と母に叱られた。
その瞬間、霞澄は痛いほど理解した。
自分と希実は、最初から同じじゃなかった。
松本希実こそが、両親に本当に愛される娘で――松本霞澄は、何でもない。
湧き上がる悔しさを飲み込もうとした背後で、松本奥の不機嫌な声が刺さる。
「帰ってきたのに挨拶もしないの? 最近ほんと、調子に乗ってるわね」
父の松本当主が、妻の手を軽く引いた。穏やかな笑みを貼りつける。
「お母さんは口が悪いだけで、本当はお前のことを心配してるんだ。霞澄、今日は希実の件を説明したくて呼んだ」
霞澄はわずかに背筋を伸ばした。目の奥に、ほんの小さな期待が灯る。
松本当主は咳払いを二つ、にこやかに言った。
「実はな。希実はあのとき、本当に海に飛び込んだんだ。ただ、運よく親切な人に助けられてな。ずっと療養していて、ようやく完治したから戻ってきた。……良い話じゃないか」
耳を疑った。
尊敬してきた父が、こんな稚拙で、あまりに都合のいい嘘を口にするなんて。
霞澄の瞳から光がすっと引く。乾いた笑いが漏れた。
「そう。……でも、お父さん。希実は自分で言いました。私を弄んだだけだって」
嘘の皮が剥がれても、松本当主は少しも動じない。落ち着いた口ぶりで続ける。
「冗談だよ。なあ、希実。霞澄に謝りなさい」
希実はようやく身体を起こし、不機嫌そうに吐き捨てるみたいに言った。
「……ごめん」
冗談?
胸が詰まり、息がしづらい。
希実をかばうためなら、父はこんな理屈の通らない言葉も平然と並べる。
自分は、本気で馬鹿にされているのだろうか。
霞澄が黙っているのを「納得した」と受け取ったのか、松本当主は松本奥へ目配せした。
松本奥は相変わらず冷たい声で言う。
「それともう一つ。希実が戻ったんだから、あんたと緒方廷治の関係も切りなさい」
霞澄は、思わず笑ってしまった。
自分だって切りたい。誰よりも、終わらせたい。
でも、それを母の口から言われると――ひどく皮肉で、吐き気がする。
当時、自分がどれだけ嫌がったと思っているの。
霞澄は唇を噛み、震える声で言いかける。
「希実は、偽装で……どうして――」
パァンッ!
言葉は、容赦のない平手で叩き潰された。
松本奥はいつも全力で叩く。今回も同じだ。
霞澄はそのまま床に倒れた。
「誰が姉を疑っていいって言ったの! 躾のなってない子!」
希実はスマホを置き、松本奥の腕に絡みつく。甘ったるい声。
「ママ、怒らないで。霞澄はね、たぶん廷治と別れたくないから、わざとそんなこと言うんだよ。そこまで好きなら……私、お姉ちゃんとして譲ってあげよっかなぁ。泣きながらだけど」
あまりの白々しさに、霞澄の胃がひっくり返った。
こみ上げたものを堪えきれず、床に向かってえずく。
松本当主が深くため息をつき、霞澄に手を差し伸べようと近づく。だが霞澄は、反射的に身を引いた。
その拒絶が、松本奥の怒りに火を注ぐ。
「霞澄、恥ってものを知らないの? 廷治は元々、希実の彼氏だったのよ!」
頬は熱く腫れ、小腹の奥が鈍く痛む。けれど霞澄は歯を食いしばり、声を張り上げた。
「最初にあの人が私を退学させて、閉じ込めて、玩具にしたとき……どうして止めてくれなかったの!」
あの頃の緒方廷治は狂っていた。
それでも両親は、娘を守らなかった。それどころか裏で「きちんと尽くして、緒方家と松本家の繋ぎを保て」と言った。
その問いは鋭すぎた。
両親の「優しい家族」の仮面を、根こそぎ剥がしてしまうほどに。
温厚を装っていた松本当主の顔さえ歪む。
次の瞬間、男の靴先が容赦なく振り上がった。
霞澄の腰へ――ぐしゃりと、重く突き刺さるように。
