第4章
その言葉を口にした瞬間、松本霞澄ははっきりと感じた。周囲の温度が、すっと下がったことを。
緒方廷治の眼が、危険な色に染まる。
「……何だと?」
怒った顔は相変わらず怖い。霞澄はごくりと唾を飲み込み、震える息を押し込めて、もう一度言った。
「私たち……終わりにしましょう!」
次の瞬間、真新しい陶器の椀が投げつけられ、足元でガシャンと砕け散った。
ひんやりした液体が足の甲に飛び、霞澄は思わず身を震わせる。
男の陰鬱な声が落ちてくる。
「松本霞澄。言ったはずだ。希実を生き返らせられない限り、お前に終わりなんてない」
以前なら、その一言で希望が折れ、黙って従っただろう。
死人を生き返らせるなど、誰にもできないのだから。
けれど今日は違った。
霞澄は苦笑し、乾いた声で返す。
「いいですよ。約束……守ってくださいね」
そう言い残して、松本霞澄は出て行った。
背中は相変わらず頼りないのに、緒方廷治の胸の奥が、なぜかざわつく。
苛立って眉間を揉み、無理やり仕事へ意識を戻した。
オフィスへ戻ると、床に散らばっていた書類はすでに片づけられている。
周囲の視線が、探るように刺さった。
当然だ。今日の彼女は、いつもとまるで違う。
霞澄は何食わぬ顔で席に着き、細川沙耶の殺気じみた視線を無視してパソコンを開いた。午前中に溜めた仕事を、淡々と処理していく。
退勤間際、母・夏目乙美からまた電話が来た。
画面に点る「ママ」の文字を見た瞬間、心臓が喉元までせり上がる。
松本霞澄にとって、希実の偽装死でいちばん深く刺さったのは希実本人ではない。
真実を隠し、冷めた目で自分が緒方廷治に壊されていくのを見ていた――両親だ。
一日考えても、実の親とどう向き合えばいいのか答えは出ない。
けれど、逃げても意味がない。悪いのは自分ではない。
深呼吸して、通話を取る。
「松本霞澄! よくも今まで出なかったわね!」
怒鳴り声が飛んできた途端、言葉より先に涙が落ちた。
乱暴に拭い、無理に平静を装う。
「……何か用?」
突き放したような口調が、かえって母の怒りに油を注ぐ。
「今すぐ帰ってきなさい。話がある」
霞澄は唇を噛む。
言われなくても分かる。希実のことだ。
ちゃんと話す必要もある。
四十分後。
松本霞澄が家のドアを開けた瞬間、最初に目に入ったのは、リビングのソファに寝転がってスマホをいじる松本希実だった。
シルクのネグリジェ姿で、大きなスナックの桶を抱え、片足をテーブルに投げ出している。まるで自分の城みたいに、くつろぎきった姿。
胸が、ちくりと痛んだ。
自分は家でこんなふうに過ごしたことがない。少しでも力を抜けば、母に「はしたない」「淑女らしくしなさい」と叱られる。
この瞬間、霞澄は骨の髄で理解した。
差は、最初からそこにあったのだ。
希実こそ両親に愛される娘で、自分は――何でもない。
背後から、母の不機嫌な声が刺さる。
「帰ってきたのに挨拶もしないの? 最近ほんと生意気ね」
父――松本当主が妻の腕をそっと引き、穏やかな笑みを作った。
「お母さんは口が悪いだけだ。本当はお前のためを思ってる。霞澄、今日はお姉ちゃんの件を説明したくて呼んだんだ」
霞澄はわずかに背筋を伸ばし、ほんのかすかな期待を瞳に浮かべた。
松本当主は咳払いをし、にこやかに言う。
「実はな、当時お姉ちゃんは本当に海に飛び込んだ。ただ、親切な人に助けられてな。今はすっかり元気になって戻ってきた。いい話じゃないか」
耳を疑った。
あの賢明な父の口から、こんな茶番が出るなんて。
霞澄の目が翳り、苦笑が漏れる。
「そうなんですか。でも、お父さん。姉さんは自分で言いました。私をわざと弄んだだけだって」
嘘が剥がれても、松本当主は眉一つ動かさない。
「冗談だよ。なあ、希実。妹に謝りなさい」
希実はようやく起き上がり、だるそうに言った。
「ごめんねぇ」
冗談。
胸が詰まって、息がうまく入らない。
父は自分を本気で愚か者だと思っているのだろうか。
霞澄が黙っているのを「納得した」と解釈したのか、松本当主は妻に目配せした。
夏目乙美は相変わらず不機嫌そうに言い放つ。
「それともう一つ。お姉ちゃんが戻ったんだから、緒方廷治とも切りなさい」
思わず笑ってしまった。
自分も終わらせたい。だが母の口から出ると、皮肉でしかない。
当時、霞澄は嫌だったのに。
唇を噛み、震える声で言いかける。
「希実は、偽装で……どうして――」
言葉は、平手で遮られた。
バチン、と乾いた音。
母は容赦なく、霞澄は床に倒れる。
頬が熱く痺れ、視界が揺れた。
「誰が姉の名前を呼び捨てしていいって言ったの! 躾がなってない!」
希実はスマホを置き、母の腕に絡んで甘える。
「ママ、怒らないで。霞澄はね、たぶん廷治と別れたくないからそんなこと言うんだよ。あーあ、そこまで好きなら……お姉ちゃんとして譲ってあげよっかなぁ」
吐き気が込み上げる。
霞澄は床に向かって、えずいた。
松本当主が深いため息をつき、助け起こそうと近づく。
だが霞澄は身を引いた。
その拒絶が、母の神経をさらに逆撫でする。
「松本霞澄、恥ってものを知らないの? 元々あれは、あんたの姉の彼氏よ!」
頬は腫れ、小腹が鈍く痛む。
それでも霞澄は歯を食いしばり、声を張った。
「最初にあの人が私を退学させて囲ったとき、どうして止めてくれなかったの!」
あの頃の緒方廷治は狂っていた。
それでも両親は庇わず、裏で「ちゃんと尽くして松本家と緒方家を繋ぎ止めろ」と言った。
その問いは鋭すぎた。
家族の仮面を、根こそぎ剥がしてしまう。
温厚を装っていた松本当主の顔が歪む。
そして次の瞬間――霞澄の腰に、容赦ない蹴りが叩き込まれた。
