第7章
沈黙が落ちたあと、松本霞澄は口を開いた。
「……あなたたちの言う通りにする。でも、ひとつだけ条件を飲んで」
夏目乙美は適当にうなずく。
「言わなくても分かってるわよ。今年の誕生日パーティーでしょ。盛大にやってあげる。お姉ちゃんのときと同じ規模で。満足?」
松本霞澄は松本希実より二歳下だが、誕生日はたった一週間違いだった。
物心ついた頃からずっと、霞澄が祝われる日は希実の誕生日と一緒くたにされてきた。希実が選び損ねたドレスを着せられ、年に一度のいちばん大切な日に、姉の引き立て役をやらされる。
「自分の誕生日を、自分のために過ごしたい」
何度も両親に訴えた。返事はいつだって「分かった」だったのに、翌年になれば結局、何ひとつ変わらない。
乙美は、霞澄の執着がまだそこにあると思ったのだろう。
けれど霞澄は迷いなく首を横に振った。
「それじゃない」
乙美の眉が吊り上がる。
末娘に対して、彼女は昔から辛抱がきかない。苛立ちを隠そうともせず、語気を強めた。
「じゃあ何よ。欲しいものがあるならさっさと言いなさい。回りくどいの大嫌いなの」
霞澄は視線を落とす。
「……宴会で言う」
乙美はその場で爆発しかけた。頭上にぶら下がる得体の知れない条件など、許せる性格ではない。
その瞬間、松本当主がちょうどいいタイミングで現れ、妻の前に立った。
そして霞澄に向け、慈しむような目で笑う。
「霞澄は分別のある子だ。家を困らせるようなことは言わないだろう。……そうだな?」
入ってきてからこれで三度目だ。「分別がある」という言葉は、褒め言葉というより鎖に近い。
霞澄は苦い笑みを浮かべた。
「はい。お父さんもお母さんも困らせません。むしろ……あなたたちにとっては、きっと大喜びする条件になると思う」
乙美はまだ納得していない顔をしていたが、当主は心底ほっとしたように笑った。
「それならいい。今日は帰る。早く休みなさい」
帰り際、乙美のバッグが玄関の棚に置かれていた書類を引っかけ、床に落とした。
霞澄が退勤の途中で受け取ってきた、妊娠検査の結果だ。
だが乙美はそれに目もくれず、そのまま出て行った。
部屋に静けさが戻る。
霞澄はしばらく動けずに立ち尽くし、やがて黙って腰を折り、床の書類を拾い上げた。
本当は、結果などとっくに出ていた。受け取りに行かなかっただけだ。
時間がなかったのもある。何より、怖かった。
逃げたところで、何も終わらない。
霞澄は小さく息を吐き、封を開けた。
【妊娠5週】
その文字を見た瞬間、最後の淡い期待が砕け散った。
膝が抜け、霞澄はその場にへたり込む。
――妊娠している。緒方廷治の子。
どうする。
堕ろすのか、産むのか。
理性は叫ぶ。気づかれる前に中絶するのが最善だ、と。
緒方廷治の態度を見れば分かる。彼は自分を愛していない。なら、子どもを望むはずもない。
でも……。
霞澄は平らな腹にそっと手を当てた。
父も母も姉もいるのに、ひとりぼっちみたいに生きてきた。
それでも、この小さな命は――確かに、自分の「身内」だ。
目を閉じても、決められなかった。
その夜、霞澄は寝返りばかり打ち、ほとんど眠れなかった。
翌朝の顔色は最悪で、挨拶に来た人事部長がぎょっとする。
「どうした、その顔……。ああそうだ、辞表の返事が出た。却下だ。緒方社長に直接聞いてこい」
言うだけ言って、人事部長は足早に去った。
霞澄はしばらく呆然とし、それから立ち上がって緒方廷治の執務室へ向かった。
「入れ」
男の声は硬い。
入ってきたのが霞澄だと分かると、目の温度がさらに下がった。
「退職の話なら帰れ」
拒絶は露骨だった。放す気など、欠片もない。
霞澄は動かない。
一瞬、言い方を選び、平坦に告げた。
「手続きと引き継ぎに半月はかかります。許可しても、支障はありません」
来週の土曜には、松本希実の存在を公にする宴会がある。
それが終われば、緒方廷治が自分を縛る理由は消える――そう信じていた。
だが言い終えた瞬間、茶杯が霞澄の額すれすれをかすめて飛んだ。
「パリン」と壁際で割れる音。霞澄は息を呑み、足がすくむ。
希実の一件以来、緒方廷治は不機嫌と激情の間を行き来するようになっていた。
緒方廷治は立ち上がり、大股で霞澄の前へ来ると、顎を乱暴に掴んで顔を上げさせる。
「言ったはずだ。この先も一生、お前を許さない。都合のいい夢を見るな」
それから目を細めた。疑うように、探るように。
「何があった。俺から逃げられると思ったか。まさか――」
霞澄の心臓が跳ね上がる。
希実の偽装死のことを、感づいたのか。
だが次の瞬間、緒方廷治は手の甲で霞澄の頬を軽く弾いた。
痛みはない。ただ、侮辱だけが残る。
「新谷明珠と婚約したから、俺を揺さぶれるとでも思ったか」
そんな発想、霞澄には最初からなかった。
彼とその婚約者から逃げたいだけだというのに。
言い返そうとした言葉は、緒方廷治に容赦なく切り捨てられる。
「松本霞澄。お前は姉を殺した罪人だ。贖罪以外、何の権利もない」
罪人。贖罪。
三年間、聞かされ続け、耐え続けてきた言葉。
もう、耐えられなかった。
霞澄は低く、はっきりと言った。
「……姉さんが、死んでないって言ったら?」
緒方廷治の瞳が一瞬揺れ、すぐに薄笑いに塗り替わる。
「松本霞澄、何を馬鹿なことを」
死人が生き返るわけがない――その確信が、嘲りになって滲む。
「いい。希実を生き返らせたら、緒方グループを辞めさせてやる」
あり得ない、と言い切る自信。
霞澄はゆっくり背筋を伸ばした。
青白い唇に、満足げな笑みが浮かぶ。
「分かりました。今日の言葉、忘れないでください。失礼します」
背中がドアの向こうへ消えるのを見送った瞬間、緒方廷治の胸がざわついた。
何か大切なものを失うような、薄気味悪い違和感。
そのとき初めて気づく。
松本霞澄は、ずいぶん痩せていた。
同情と痛みが芽を出しかけた刹那、松本希実の鮮やかな笑顔が脳裏を横切り、緒方廷治はその感情を握り潰した。
松本霞澄は昔から、希実と衝突してばかりで、肝心なときに電話にも出ず、死なせた女だ。
――そんな女に、同情など要らない。
緒方廷治は無表情でパソコンを開き直し、仕事へ意識を戻した。
