第1章

 東京の午後の日差しは、針のように突き刺さる。

 私はテニスコートの端にしゃがみ込み、首筋を伝ってジャージの襟元へと滑り落ちる汗を感じていた。また一球、黄色いボールが足元に転がってくる。私は機械的に腰をかがめてそれを拾い上げ、白いポロシャツを着た男に差し出した。

 神宮寺翔はボールを受け取るが、私を見ようともしない。

「雪菜、もっとテキパキ動けねえのかよ」彼は苛立たしげに手を振った。「調子狂うだろ」

「すみません」

 私は頭を下げ、コート脇の影の中へと下がる。

 彼の友人たちがドッと沸いた。

 誰かが小声で言うのが聞こえる。「翔の彼女、マジで従順だな」

 従順。

 この言葉を聞かされて、もう六年になる。

 青葉大学の図書館でのあの『偶然の出会い』から、自分が演じるべき役回りは分かっていた——従順なペット。呼べばすぐに来る影のような存在。

 私はうまくやった。あまりに完璧に演じすぎて、これらすべてが自分自身で仕組んだ罠であることを忘れかけるほどに。

「休憩!」翔の声が思考を遮る。

 彼はぞんざいに私に向かって手を振った。「飲み物買ってこい」

「はい」

 立ち上がると、長くしゃがんでいたせいで膝が微かに痺れていた。

 休憩所へ向かう背後から、ラケットが地面を叩く音と、男たちの屈託のない笑い声が混じり合って聞こえてくる。

 このクラブの会費は、私のバイト代三ヶ月分に相当する。だというのに、私には更衣室に入る資格すらない。

 休憩所は自販機のすぐ横にある。

 近づいた瞬間、中から翔の友人の声が漏れ聞こえてきた。「翔、そろそろ桐谷と結婚すんじゃね? もう長いだろ」

 自販機のボタンへ伸ばした手が止まる。

「結婚?」翔が笑った。聞き飽きるほど耳にしてきた、あのお決まりの見下すような笑い声だ。「遊びだよ、遊び」

 指先が冷たい金属の表面に触れる。

「まあ、あいつは確かに大人しいからな」彼は続ける。「俺の好みに合ってるし、万が一子供でもできたら……結婚してやってもいいけど」

 誰かが冷やかす。「なら急がねえとな!」

「そういや」不意に別の声が割って入った。「白石さんがフランスから戻ってくるって聞いたぜ?」

 空気が一瞬、凍りついた。

「……ああ」翔の声は歯切れが悪い。明らかに返答に窮している様子だ。

 ボタンを押すと、ゴトンという鈍い音と共に缶コーヒーが取り出し口に落ちた。缶に触れた瞬間、その冷たさが心臓まで伝わっていく。

 六年だ。

 六年前、私は青葉大学の図書館の入り口に立ち、白石千夏に振られたばかりのこの男を見つめていた。彼の怒り、復讐心、そしてプライドを計算しながら。彼が自身の価値を証明するために、好き勝手に踏みにじれる相手を求めていることは分かっていた。そして私には金が必要だった——祖母の治療費、学費、生きていくための金が。

 だから私はわざと彼の前に姿を現し、羨望の眼差しを向け、『偶然』を装ったのだ。

 彼が初めて金を渡し、私を「ペット」にした時、屈辱を受ける覚悟はできていた。

 だが、この取引が六年も続くとは予想外だった。

 ましてや六年目にして、こんな会話を聞くことになろうとは。

「遊びだよ」

 私は屈んで飲み物を取り出す。顔の表情はピクリとも動かない。鏡のような自販機の表面に、私の顔が映り込んでいる——蒼白で、平穏で、まるで精巧な仮面のようだ。

 仮面の下には何が隠されている?

 怒りか? いや、そんな感情は安っぽすぎる。

 失望? それも違う。最初から期待などしていなかったのだから。

 ふと、祖母の病状が安定したことを思い出す。学費もあらかた貯まった。アメリカの大学院への出願書類も半年以上前から準備済みで、あとは好機を待つだけだった。

 白石千夏の帰国。それこそが、待ち望んだ好機なのかもしれない。

 飲み物を抱えてコートへ戻る。日差しが目に痛い。

 翔は友人たちと談笑していたが、私を見るなり手を伸ばして飲み物を受け取った。礼の一言もない。

「雪菜」蓋を開けて一口飲むと、彼は言った。「今夜は付き合いがあるから、待たなくていいぞ」

「分かりました」私はうつむき、子猫のようにおとなしい声で答える。

 彼は満足げに頷き、背を向けて友人との会話に戻った。私はコート脇の影に退き、無意識にスマートフォンを指で摩る。

 ラケットを振る翔を一瞥し、唇の端を吊り上げた。

 六年の歳月。そろそろ幕引きだ。

 夜の十一時。私は十平米のアパートに戻っていた。

 翔の付き合いはまだ終わっていないらしく、スマホには何の連絡もない。クローゼットの奥から、埃を被ったスーツケースを引きずり出す——三年も前から準備していたものだ。

 中にはパスポートに通帳、重要な証書、そしてアメリカ行きの片道航空券の予約確認書が入っている。

 ベッドの縁に座り、スマホのアルバムを開く。

 一番上にあるのは、今日テニスコートで撮った写真だ。翔に頼まれて、彼と友人たちの集合写真を撮ったもの。

 写真の中の彼は爛漫と笑い、友人の肩に手を回している。陽光が彼の顔を黄金色に染めていた。

 私は画面の端にすら入っていない。

 その写真を削除し、さらに指を滑らせる。

 六年分の写真。そのほとんどが彼だ——レストランでの食事、パーティでの付き合い、オフィスでの仕事姿。私は忠実な専属カメラマンのように、彼の輝かしい瞬間を記録し続けてきた。

 けれど、二人のツーショットは一枚もない。

 一枚の写真で指が止まる——六年前、青葉大学の図書館前だ。安っぽい服を着て、本の山を抱えている私。その瞳は透き通るように澄んでいる。

 あの頃の私はまだ信じていた。努力さえすれば運命は変えられると。

 後に知ったのだ。努力だけではどうにもならない運命があることを。だが、計算でなら変えられる。

 アルバムを閉じ、銀行アプリを開く。この六年で貯めた金は、アメリカでの1年目の学費と生活費を賄うに十分だ。祖母の医療費も精算済みで、病状も安定し、長期療養型の一般病棟へ転院できることになった。

 準備はすべて整っている。

 あとは、去るための理由だけ。

 不意にスマホが震えた。翔からのメッセージだ。

「終わった。今からそっち行く」

 メッセージを見つめ、キーボードの上で指を彷徨わせる。

 以前なら即座に「分かりました」と返し、彼好みの寝間着に着替えて待機していただろう。だが今夜は、演じる気になれない。

「ちょっと体調が悪くて。早めに休みたいんです」

 送信。

 スマホが三秒沈黙し、再び震え出した——着信だ。

「もしもし」私は受話器を取り、あつらえ向きの疲れた声を出す。

「体調悪いって?」翔の声には苛立ちが混じっている。「どこが悪いんだ?」

「たぶん熱中症です。テニスコートの日差しが強かったから」私は軽く咳払いをした。「明日には治ります」

 彼は少しの間、黙り込んだ。「……そうか。なら大人しく寝てろ」

「はい。翔さんも早く帰ってくださいね」

 通話を切る瞬間、彼の向こう側から女の笑い声が聞こえた。

 スマホをベッドに放り投げ、窓辺へと歩み寄る。東京の夜景は煌々と輝いていた。この街に光が欠けたことはないが、その光が私の生活を照らしたことなど一度もなかった。

 ベッドの脇にはスーツケースが静かに横たわっている。旅立ちを待つ秘密のように。

 昼間、休憩所の外で耳にした言葉を思い出す——「白石さんが帰ってくる」

 かつて翔を拒絶した女。彼のプライドを傷つけた女。そして間接的とはいえ、私のこの六年を作り上げた女。

 彼女が帰ってくる。

 私はふと笑みをこぼした。

 上等だ。帰ってくればいい。

 そして私は、彼女が戻る前に音もなく消え去るのだ。

 まるで、最初から存在しなかった夢のように。

 窓の外で小雨が降り始めたらしい。雨粒がガラスを叩き、細かな音を立てている。冷たい窓に手を触れると、指先から白い霧が広がっていった。

 ようやく、終わる。

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