第2章
雨脚が強まっていく。
私は窓辺に立ち、ガラスを伝い落ちる水滴を目で追いながら、いつしか意識を六年前へと飛ばしていた。
あれもまた、雨の降る夜のことだった。
青葉大学附属病院の廊下は、いつだって消毒液の臭いが充満している。
私はお粥の入った器を手に、がん病棟のドアを開けた。ベッドに横たわるおばあちゃんの顔は、酸素マスクの下で紙のように白かった。
「おばあちゃん、ご飯の時間だよ」
彼女は辛そうに目を開け、私を認めると身を起こそうとする。私は慌てて器を置き、その骨と皮ばかりになった肩を支えた。
「雪菜……」
消え入りそうなほど微弱な声だった。
「お医者さんが……輸入薬に変えるって……。私、もう家に帰りたいよ」
私の指が、彼女の肩の上で強張った。
輸入薬。ワンクール二百万。私の銀行口座には五十万しかない——丸三ヶ月、必死に働いて貯めた全財産だ。
「おばあちゃん、安心して」
私は努めて明るく振る舞い、何事もなかったかのように笑ってみせた。
「お金のことは私がなんとかするから。それより、お粥が冷めないうちに食べて」
彼女は濁った瞳で私を見つめ、音もなく涙をこぼした。
「おばあちゃんが、あんたの重荷に……」
「馬鹿なこと言わないで」
私はその涙を拭い、器を持ち上げた。
「ほら、あーん」
お粥を食べさせ終えると、もう夜の九時を回っていた。私はおばあちゃんの布団を掛け直し、小声で言った。
「トイレに行ってくるね」
廊下の突き当たりにある非常階段。その非常階段で、私は冷たいコンクリートの壁に背を預け、ズルズルと座り込んだ。
二百万。
頭の中で計算が暴走する——バイトをあと二つ増やしても、飲まず食わずで働いても、最低半年はかかる。だが医者は言った。おばあちゃんは、もってあと一ヶ月だと。
ブブッ、と突然スマホが震えた。
学内フォーラムからの通知だ。
「衝撃! 学生会長・神宮寺翔が告白玉砕、ラブレターをその場で破り捨てる!」
私はスレッドを開いた。
写真の中の男は桜の木の下に立ち、足元にはピンク色の紙吹雪が散らばっている。その顔は怒りで歪み、白石千夏は彼に背を向け、振り返りもせずに立ち去ろうとしていた。
コメント欄は爆発的な盛り上がりを見せている。
「マジか、神宮寺翔でも振られることあるのか?」
「白石千夏もえげつないな、顔も立ててやらないなんて……」
「神宮寺家の株価がここ数日暴落してるらしいし、先輩も機嫌最悪だろうな……」
私はその写真をじっと見つめた。
長い間、じっと。
やがて私は検索エンジンを開き、「神宮寺翔」と打ち込んだ。
情報が次々と画面に踊る。神宮寺グループの跡取り、青葉大学学生会長、一族企業の時価総額三百億円……。
続けて、「神宮寺翔 性格」で検索をかける。
掲示板にはこんなタレコミがあった。
「神宮寺先輩、普段はいい人だけどプライド超高いからな。拒絶されるのが一番嫌いらしい」
「好きな女には羽振りがいいぞ。白石千夏を口説いてた時なんて、プレゼントだけで数百万使ったって噂だ」
私はスマホを閉じ、目を閉じた。
脳内で悪魔的な声が叫んでいる。これはチャンスだ、と。
振られてプライドをズタズタにされ、自分の魅力を証明したくてたまらない金持ちのボンボン。そして、喉から手が出るほど金が欲しい貧乏学生の私。
これ以上の適役があるだろうか?
目を開けたとき、私の瞳はかつてないほど冷徹に光っていた。
三日後、青葉大学図書館。
私は最も地味な白シャツとチェック柄のスカートに着替え、あえて化粧もせず、清純で無害な女子学生を装った。鞄には経済学の分厚い専門書が入っている——神宮寺翔が最近、企業管理のレポートに取り組んでいることは調査済みだ。
午後二時。彼は時間通りに三階の自習室へ現れた。
私は深く息を吸い込み、重たい本の山を抱えて彼の方向へと歩き出す。
あと五歩。
四歩。
三歩。
彼の席から二メートルの地点で、私はわざと足をもつれさせ、本を派手にばら撒いた。
「あっ!」
小さな悲鳴を上げ、しゃがみ込んで本を拾う。
周囲の視線が集まるのを感じる。
横目で確認すると、神宮寺翔は眉をひそめたが、動こうとはしなかった。
いいだろう。第一段階成功——注意を引くこと。
私は慌てた様子で本を拾い集めながら、その中の一冊をわざと彼の足元へと滑らせた。
彼は足元の本を見下ろした。『現代経営管理論』だ。
「ごめんなさい……」
小声で謝り、手を伸ばす。
その瞬間、彼のエナメル靴が本を上から踏みつけた。
私の手は空中で止まった。
「わざとか?」
彼の声は冷たく、明らかな嘲笑を含んでいた。
顔を上げ、彼の瞳を正面から見据える。そこには警戒と嫌悪が渦巻いていた——白石千夏に拒絶された反動で、近づいてくる女すべてに敵意を向けているのは明らかだ。
「え……?」
私は茫然とした表情を作ってみせる。
「白々しいんだよ」
彼は鼻で笑った。
「この三日間、図書館で俺と何回『偶然』会った? 五回か、それとも六回か?」
心臓が早鐘を打つ。だが、私の表情に綻びはない。
「先輩、誤解です」
私はうつむき、声に悔しさを滲ませる。
「私はただ……もう少し勉強したくて……」
「勉強?」
彼は足元の本を拾い上げ、扉ページをめくった。
「この本は大学院レベルだ。学部二年のお前が、これを?」
私は唇を噛み締め、沈黙する。
不意に彼が笑った。背筋が凍るような笑みだった。
「言ってみろよ」
彼は本を私の胸に放り投げた。
「望みは何だ? 金か? それとも神宮寺家に取り入りたいのか?」
周囲からひそひそと囁き声が聞こえ始める。無数の視線が針のように肌に突き刺さるのを感じた。
これが屈辱か。
そんなものは、最初から覚悟の上だ。
「申し訳ありませんでした」
私は立ち上がり、深く一礼した。
「先輩のお邪魔をしてしまって」
踵を返した瞬間、背後から声が掛かった。
「待て」
私は足を止める。
「名前は?」
「……桐谷雪菜です」
「桐谷、か」
彼はその名を小声で繰り返した。
「両親は他界、今は病気の祖母と二人暮らしだそうだな」
本の端を握る指に力がこもる。
なぜ、それを?
「どうやら図星のようだな」
彼は立ち上がり、私の目の前まで歩み寄ってきた。
「なら一層理解できるはずだ。世の中には、お前ごときが逆立ちしても手の届かない人間がいるってことが」
私はうつむいたまま、睫毛を震わせる。
「だが」
彼の声色が、不意に愉悦を帯びたものに変わった。
「チャンスをやっていいぞ」
顔を上げる。
彼は財布から一枚のブラックカードを抜き出し、私の目の前でちらつかせた。
「俺のペットになれ。このカードは好きに使っていい。どうだ?」
図書館の空気が凍りついた。
全員が私を見ている。
私はそのブラックカードを見つめ、脳内で高速計算を行う——このカードの限度額は最低でも五百万。おばあちゃんの治療費をすべて賄えるし、私が学業を続けるのにも十分すぎる額だ……。
「私……」
声が震える。
「先輩のおっしゃる意味が、わかりません……」
「わからない?」
彼は顔を寄せ、二人だけに聞こえる声量で囁いた。
「字面通りの意味だ。俺のペットとして、従順に、大人しく、いつでも呼び出しに応じろ。その代わり、欲しいものは何でもくれてやる」
彼の瞳は悪意と、復讐の快感に満ちていた——彼は私を利用して証明しようとしているのだ。たとえ白石千夏に振られようとも、金のために自分の足元にひれ伏す女など掃いて捨てるほどいるのだと。
憤るべき場面だ。
彼の頬を張り飛ばし、プライド高く立ち去るべきだ。
だが、病床のおばあちゃんの姿が脳裏をよぎる。「おばあちゃんが、あんたの重荷に」と言ったあの涙が。「もってあと一ヶ月」と言った医者の無機質な表情が。
「わかりました」
私は言った。
彼は一瞬きょとんとした。私がこれほど即答するとは思わなかったのだろう。
「何だと?」
「言ったんです」
私は顔を上げ、彼の目をまっすぐに見つめた。
「やります、って」
彼は私を長いこと凝視していたが、やがて口元を歪めた。軽蔑に満ちた笑みだった。
「いいだろう。明日の夜七時、『雅月亭』だ。待たせるなよ」
彼はブラックカードを私の手に押し付け、背を向けた。
その場に立ち尽くしたまま、私はそのカードを強く握りしめた。爪が掌に食い込む。
周囲の囁き声が潮のように押し寄せてくる。
「あの子、本当に受け取ったよ……」
「金のためなら何でもするのね……」
「情けない……」
私はうつむき、本を抱きしめ、一歩ずつ図書館を出た。
外の陽射しが目に痛い。
私は目を細め、口角を無理やり持ち上げた。
ごめんね、おばあちゃん。
おばあちゃんを生かすためなら、私は何だって捨てられる。
尊厳さえも。
その夜、私は病院の受付でブラックカードを切った。
「桐谷様、今回のお支払い二百万円、完了いたしました」
看護師が笑顔で告げる。
私は小さく頷き、病室へと向かった。
廊下の窓ガラスに私の顔が映っている——青白く、のっぺりとして、まるで人形のように虚ろな目をした顔が。
でも構わない。
おばあちゃんが生きられるなら、私は何にだってなれる。
たとえ、ペットにだって。
スマホの着信音が、思考を現実へと引き戻した。
我に返ると、私はまだアパートの窓辺に立っていた。雨は上がり、東京の夜空にいくつかの星が瞬いている。
画面には「翔」の名前が表示されていた。
私は通話ボタンを押す。
「もしもし」
「明日の晩、食事に行くぞ」
彼の声は機嫌が良さそうだった。
「あの黒いワンピースを着てこい。七時に『雅月亭』だ」
雅月亭。
六年前、私たちが初めて会った場所。
「わかりました」
通話を切り、クローゼットを開ける。黒いワンピースは一番奥に静かに吊るされていた。
その柔らかな生地に触れながら、ふと六年前のあの夜を思い出す。
翔は個室で私を待っていた。テーブルには高級料理が並び、彼はまるで戦利品を見定める王のように上座に座っていた。
「来い」
彼は言った。私は近づく。
「跪け」
私は従った。
彼は手を伸ばして私の顎を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「いいか、今日からお前は俺のペットだ。それを忘れるな」
その時、私の瞳の奥に冷たい光が走ったことに、彼は気づかなかった。
彼にとって、私の感情などどうでもよかったからだ。
私は手を引っ込め、クローゼットの扉を閉めた。
明日の夜、雅月亭。
これが、私たちの最後の逢瀬になる。
私はデスクに向かい、引き出しを開けた。そこにはこの六年間で溜まった写真や思い出の品が詰まっている——映画の半券、レストランの領収書、彼が気まぐれに贈ってきた安っぽいネックレス……。
一つ一つ、ゴミ袋へと放り込んでいく。
最後に、一枚の写真だけが残った。
六年前、青葉大学図書館の前、桜の木の下で本を抱えて立っている私。写真の中の私は瞳が澄んでいて、あどけない笑顔を浮かべている。これから待ち受ける運命など、知る由もなく。
私はその写真をじっと見つめた。
長い間、じっと。
そして、指先で引き裂き、ゴミ袋へと捨てた。
さようなら、桐谷雪菜。
生きるために全てを捨てた女の子。
明日、私は新しい自分になる。
もう誰にも依存しない、私自身に。
