第3章
暗闇の中、スマホのバックライトだけがやけに目に刺さる。
私はベッドに横たわり、たった今投稿されたばかりのSNSの写真を凝視していた——成田空港の到着ロビーに佇む白石千夏。その背後には荷物の載ったカート、顔には完璧なメイクと洗練された笑み。
キャプションはシンプルだ。「Tokyo, I'm back」
「いいね」の数は既に千を超え、コメント欄は歓迎の声で埋め尽くされている。
私はそっと画面を消し、目を閉じた。
ついに、彼女が帰ってきたのだ。
それからの一週間、翔の変化は誰の目にも明らかだった。
頻繁に外出するようになり、その理由は決まって「緊急会議」「接待」、あるいは「プロジェクトの打ち合わせ」だ。
私への電話は日に日に短くなり、その口調も適当になっていく。
「今夜は待たなくていい」
「今週末は用事があるから、そっちは適当にやってくれ」
「ああ、分かった。じゃあな」
受話器の向こうで鳴る、ツー、ツーという無機質な切断音。私は自嘲気味に口角を上げた。
上等だ。むしろその方が好都合だ。
私はノートパソコンを開き、出国前の事務処理を進める——銀行口座の移管、アパートの退去通知、祖母の医療手配……すべてにおいて、秒単位のスケジュール管理が必要だった。
静まり返った部屋に、キーボードを叩く音だけが響く。
不意に、下腹部に鈍い違和感が走った。
手を止め、腹を押さえる。この感覚は三日前から続いていた。最初は胃腸の不調だと思っていたが、今は……。
カレンダーアプリを起動し、画面を指で弾く。
前回の生理は……二ヶ月前?
心臓がごとりと重く沈んだ。
その時、スマホが震えた。翔からのメッセージだ。「数日後に大事な会食がある。同席してくれ。きちんとした格好で頼む」
そのメッセージを見つめると、また下腹部がしくしくと痛んだ。
深く息を吐き、「了解」とだけ返す。
そして検索エンジンを開き、こう打ち込んだ。「妊娠初期症状」
翌朝、私は青葉大学附属病院の産婦人科の前に立っていた。
ここは勝手知ったる場所だ——六年前、祖母がこの棟の七階にある癌病棟に入院していたから。
「桐谷さん?」看護師に名を呼ばれる。
診察室に入り、内診台へ。
担当医は四十代半ばの女性だった。金縁眼鏡をかけ、穏やかな表情をしている。「最近、吐き気や眠気があるとか?」
「はい」私は冷静を装って答えた。「あと、たまに下腹部も痛みます」
「生理はいつから来ていませんか?」
「二ヶ月です」
彼女は頷き、検査を始めた。冷たい器具が肌に触れる。私は天井を見つめ、頭の中を空白にした。
十分ほどして、彼女は検査結果を差し出した。「おめでとうございます。妊娠六週ですね」
受け取った紙に書かれた、無機質な医学用語がぼやけて見える。
「胎嚢の成長も順調です」医師は続けた。「ただ、少し顔色が悪いですね。栄養と休息を……」
「先生」私は遮った。「この子を諦める場合、手術はいつ可能ですか?」
彼女は一瞬固まり、眼鏡の位置を直した。「つまり……人工妊娠中絶をご希望ということでしょうか?」
「はい」
診察室に沈黙が落ちた。
「今の週数なら手術が可能ですが、配偶者の同意書が必要になります」彼女の口調は慎重になった。「ですが、もう一度考えてみては……一つの命ですし……」
「よく考えた上での結論です」私は立ち上がった。「最短で予約をお願いします」
医師は複雑な表情を浮かべたが、最終的には頷いた。「承知いたしました。まず同意書の準備と、カウンセリングの予約を取らせていただきます。手術は最短でも来週以降になります」
待合室の椅子に座り、手の中の検査結果を握りしめる。
妊娠六週。
翔に伝えたら、彼は何と言うだろう?
テニスコートで彼が友人に語っていた言葉が蘇る。「もし本当に妊娠したら……まあ、結婚してもいいけどな」
してもいい。
なんて軽い言葉。私の人生など、彼の盤上にある捨て駒に過ぎないと言わんばかりだ。
「桐谷さん」看護師が歩み寄ってきた。「手術の予約が取れました。三日後の午前九時です。前日に術前検査に来てください」
「分かりました。ありがとうございます」
予約票を受け取る。そこには鮮やかな赤字で日付が記されていた——五月十七日。
病院を出ると、東京の日差しは目を開けていられないほど強かった。
入り口で立ち止まり、行き交う人々を眺める。六年前、翔から渡されたブラックカードで祖母の治療費を払ったのも、まさにこの場所だった。
あの頃は、六年耐えれば、資金さえ貯まれば自由になれると思っていた。
今は資金も貯まった。祖母の病状も落ち着いた。アメリカの学校も受かった。
準備は万端だ。
ただ一つ、六週間の「予定外」が増えただけ。
でも大丈夫。
三日後、その「予定外」は消えてなくなる。
アパートに戻り、パソコンを開いて中絶手術に関する情報を集め始めた。
術後の注意点、回復期間、起こりうる合併症……すべてを詳細にメモに残す。
突然スマホが鳴った。翔だ。
「もしもし?」
「雪菜か」彼の声はどこか疲れているようだった。「ここ数日、かなり忙しくなりそうでな。お前……自分のことは自分でやってくれ」
「ええ、分かってる」
「あと」彼は言葉を切った。「思ったんだが……お前も最近疲れてるだろ? 少し距離を置かないか」
キーボードの上の指が止まる。
「どういう意味?」
「つまり、しばらく会うのを控えようってことだ。俺も会社のことに集中したいし」彼は早口でまくし立てた。拒絶されるのを恐れているように。「どうだ?」
白石千夏が帰ってきた。だから彼には「処理」の時間が必要なのだ。
そして邪魔なペットである私は、空気を読んで消えていた方がいい、と。
「いいわよ」私は何も起きていないかのように軽快に答えた。「ちょうど私も、勉強に集中したかったし」
「本当か?」声に明らかな安堵が滲む。「助かるよ! 必要なものがあったら言え。生活費はいつも通り振り込むから」
「ありがとう」
「じゃあ、これで。切るぞ」
ツー、ツー——
スマホを置き、画面に映る手術の資料を見て、私は思わず笑い声を漏らした。
生活費?
皮肉な話だ。
まだ何の膨らみもない腹を撫で、小声で呟く。「ごめんね」
だがその謝罪が誰に向けたものなのか、自分でも分からなかった。
それからの二日間、私は出国前の全事項を淡々と処理した。
まずは祖母だ。
介護施設を訪ねると、彼女は車椅子で日向ぼっこをしていた。病状は安定しており、完治はしないものの、穏やかな日々を過ごしている。
「雪菜」しわがれた手が私の手を握る。濁った瞳には慈愛が満ちていた。「最近、痩せたんじゃないかい?」
「そんなことないよ、おばあちゃんの考えすぎ」私は笑って答えた。「今日来たのはね、しばらく海外へ勉強しに行こうと思って」
「海外?」祖母はきょとんとした。「どれくらい?」
「二、三年かな」私はその手を握り返す。「でも定期的に帰ってくるし、ここの手配も全部済ませてあるから心配しないで」
長い沈黙の後、祖母は頷いた。「行きなさい。若いんだから、広い世界を見ておいで。おばあちゃんのことは気にしなくていい」
「おばあちゃん……」
「いいこと」私の手をぽんぽんと叩く。「自分のしたいことをしなさい」
施設を去り際、一度だけ振り返った。
陽だまりの中の祖母は、あまりに小さく、孤独に見えた。
唇を噛み、無理やり背を向ける。
ごめん、おばあちゃん。
でも、行かなきゃいけない。
次は術前検査だ。
一人で病院へ行き、血液検査、心電図、エコーと一通りの検査を受けた。
「全て正常です」医師は言った。「明日の朝、絶食で来てください。手術自体は十分程度ですが、術後は最低でも半日、場合によっては一泊していただくことになります」
「家族の付き添いは必要ですか?」
「付き添いの方がいらっしゃった方が安心ですが」彼女は私を見た。「ご家族の方は……」
「一人で大丈夫です」
彼女は何か言いかけたが、結局頷いた。
病院を出る頃には夕暮れで、東京の空は朱色に染まっていた。
信号待ちの交差点。帰宅ラッシュの人々は皆、顔に疲労を滲ませて急ぎ足ですれ違っていく。
スマホが震えた。翔からのメッセージだ。「明日の会食、明後日に変更になった。準備しといてくれ。例の黒いワンピースな。品良く頼む」
そのメッセージを見つめ、指が空中で止まる。
明日、私は手術台の上にいる。なのに彼は、私が着ていく服の心配をしている。
完璧な皮肉だ。
「了解」と返し、カレンダーの五月十七日に赤い丸をつけた。
明日。
すべてが終わる。
夜、ベッドに入っても眠れなかった。
微かな腹痛が、小さな命の存在を主張してくる。
腹に手を当て、目を閉じる。
もし、この子を産んだらどうなる?
翔は結婚してくれるだろうか?
たぶん、するだろう。
「妊娠したなら、結婚してもいい」と言っていたのだから。
でも、そんな結婚が欲しい?
私をペットとして飼い続けた男。お金で繋がった関係。白石千夏の一声で崩れ去る未来。
目を開け、天井を見つめる。
嫌だ。
いらない。
施しのような結婚なら、一人でアメリカへ行ってやり直す方がマシだ。
それに……。
「しばらく会うのを控えよう」と言った時の、あの翔の安堵した声を思い出す。
彼は私を愛してなどいない。
ただの従順なペットとして、支配欲と虚栄心を満たしたかっただけ。
白石千夏が戻った今、彼にはもっと欲しいものができた。
だから私とこの子は、彼の人生における不要なエピソードに過ぎないのだ。
体を起こし、ベッドサイドのランプをつける。予約票を取り出した。
明日午前九時。
私は時間通りに行く。
そして、すべてを終わらせる。
窓の外の東京は、今夜も眩しいほどに輝いている。眠らない街。
私も、ようやく夢から醒める時が来た。
五月十七日、朝七時。
ゆったりとしたジャージに着替え、簡単に顔を洗って家を出た。
快晴だ。陽射しは明るく、通りには早朝の散歩をする老人や、出勤を急ぐ会社員の姿がある。
駅のホームに立ち、線路の先にある暗闇を見つめる。
電車の接近を告げるメロディ。ドアが開き、人が吐き出される。
車内に乗り込み、隅の席に座った。
スマホが震える。翔だ。「昨夜は会議が長引いてな。今日は寝溜めするから、勉強の邪魔はしないよ。また夜に」
画面を見つめたまま、返信はしない。
夜?
目を閉じ、そっと下腹部に手を当てた。
ごめんなさい。
でも、これしか選択肢はないの。
病院に着いた。
産婦人科に入ると、看護師が私に気づいた。「桐谷さん、こちらへ」
更衣室で手術着に着替え、手術台に横たわる。
「緊張しないでくださいね」看護師が優しく声をかけてくれる。「すぐに終わりますから」
私は無言で頷いた。
手術室へ運ばれる。無影灯の強烈な光が目を刺す。
マスク姿の医師が近づいてきた。「準備はいいですか?」
「はい」
「では麻酔をかけますね。深呼吸してください」
冷たい薬液が血管に入り、意識がぼやけていく。
走馬灯のように、六年前の自分が浮かんだ——図書館の入り口で本を抱え、澄んだ瞳をした少女。
彼女は私を見つめ、静かに首を横に振った。
そして桜の木の下へと消えていく。
さようなら。
どれくらい経っただろう。回復室で目が覚めた。
下腹部に鈍痛がある。看護師が横でデータを記録していた。
「手術は無事終わりましたよ」彼女は言った。「あと一時間ほど様子を見させていただいて、問題なければ今日は帰れます。処方薬をお出ししますので、一週間後に経過を見せに来てくださいね」
「ありがとうございます」
目を閉じると、涙が音もなくこぼれ落ちた。
後悔ではない。
ただ、ようやく終わったのだという安堵で。
バッグの中でスマホが震えた。取り出して見る。
翔だ。「夜七時、雅月亭。遅れるなよ」
そのメッセージを、じっと見つめる。
そして削除した。
彼の連絡先ごと、すべてを。
一時間後、私は病院を出た。
東京の陽射しは変わらず眩しく、街は人で溢れている。
人混みの中を歩きながら、かつてない軽やかさを感じていた。
六年。
六年の足枷が、今日、完全に断ち切られたのだ。
スマホを開き、アメリカの教授へメールを打つ。
「Dear Professor,
I accept the offer. I will arrive in August.
Best regards,
Yukina Kiritani」
送信。
さあ、出発の準備だ。
完全なる、決別への。
