第4章

 スマホの画面、時刻表示が八時四十七分へと切り替わる。

 私は「青葉大学附属病院」産婦人科の受付に立ち、一枚の予約票を握りしめていた。朝陽に晒された白い紙が、やけに目に刺さる。

「桐谷雪菜さん?」

 看護師が私の名を呼んだ。

「はい」

「こちらへどうぞ。先に更衣室で手術着に着替えてください」

 彼女の後について長い廊下を歩く。消毒液の匂いが鼻腔を突いた。

 更衣室には私一人だ。

 コートを脱ぎ、ゆったりとした手術着に袖を通す。手荷物はロッカーに入れて鍵をかけた。

「桐谷さん」廊下から看護師の声が促す。「そろそろ手術室へ」

「今行きます」

 最後に鏡の中の自分を一瞥する——蒼白な顔、静かな瞳。口元には、かすかな笑みさえ浮かんでいた。

 手術室の無影灯は、目を開けていられないほど眩しい。

 氷のように冷たい手術台に横たわる。医師が器具を準備するカチャカチャという金属音が、静寂な空間に鋭く響いた。

「桐谷さん」

 マスク越しに穏やかな瞳だけを覗かせ、医師が近づいてくる。

「本当にご家族への連絡は必要ありませんか? 術後は付き添いの方がいたほうが……」

「必要ありません」私の声は軽い。「一人で大丈夫です」

 彼女は数秒私を見つめ、やがて小さく頷いた。

「では麻酔をかけますね。深呼吸してください」

 麻酔薬が血管に注入された瞬間、冷たい奔流が腕から全身へと駆け巡る。

 意識が遠のいていく。

 微睡みの中で、私は六年前のあの雨の夜に戻っていた。

「青葉大学図書館」の入り口。桜の木の下で本を抱えて立っている私。中から出てきた「神宮寺翔」は私を認めると、その瞳に警戒と嘲笑の色を浮かべた。

「言えよ、何が望みだ? 金か?」

「私は……」

「俺のペットになれ。このカード、好きに使っていいぞ」

 街灯に照らされたブラックカードが冷たい光を放つ。

 私が手を伸ばしてそれを受け取り、指先がカードの縁に触れた瞬間——何かが砕け散る音が聞こえた気がした。

 それはプライドだったのか。

 それとも、愛を信じていたかつての自分だったのか。

 場面が唐突に切り替わる。

 高級料亭「雅月亭」の個室。上座に座る翔は、まるで戦利品を品定めする王のようだった。

「跪け」

 私は従った。

「覚えておけ。今日からお前は俺のペットだ」

 顎を掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。その瞳に体温はなく、あるのは独占欲と復讐の快感だけ。

 対して彼を見つめる私の瞳は、まるで古井戸の水のように空虚だった。

「桐谷さん? 聞こえますか?」

 医師の声が、遠くから響いてくる。

「ん……」

 喉から辛うじて音を絞り出す。

「手術は順調でしたよ。もうすぐ終わりますからね」

 終わった。

 その言葉が脳内で反響する。

 そう、ようやく終わるのだ。

 同刻、東京都心。神宮寺グループ本社。

 会議室の椅子に深く腰掛けた翔の目の前で、プレゼン資料は三十ページ目まで進んでいたが、内容は一文字たりとも頭に入っていなかった。

 机の上に放置されたスマホの画面は暗いまま。

 朝から雪菜の返信が一件もない。

 異常だ。

 彼女が連絡を無視することなどあり得ない。単なる「了解」の一言であっても、五分以内には返ってくるはずなのだ。

 だが今日は、既に三時間が経過している。

「神宮寺さん?」秘書が小声で促す。「こちら、ご承認のサインを……」

「待て」

 彼はスマホを掴み、再び雪菜の番号をコールした。

「おかけになった電話番号は、電源が入っていないか……」

 電源オフ?

 あいつが?

 翔は勢いよく立ち上がった。会議室の視線が一斉に集まる。

「すまん、急用ができた」上着を引っ掴んで出口へ向かう。「会議は午後に変更だ。白石、お前が進行しておけ」

「え? 神宮寺先輩……」

 呆気にとられる白石千夏を置き去りに、彼は会議室を飛び出した。

 エレベーターの下降速度が遅すぎる。

 翔は階数表示を睨みつけた。心臓の鼓動が妙に速い。

 どこにいる?

 アパート? いや、朝に運転手を行かせたが不在だった。

 図書館?

 バイト先?

 そうだ、バイト先だ!

 エレベーターの扉が開くや否や駆け出す。運転手が驚きの声を上げた。

「社長?」

「雪菜のバイト先を回るぞ。全部だ、急げ!」

 コンビニ、喫茶店、家庭教師派遣会社……。

 しらみ潰しに回ったが、どこも「ここ数日、桐谷さんは来ていない」と言う。

 車に戻った翔の額には、脂汗が滲んでいた。

「社長」運転手が恐る恐る尋ねる。「警察に連絡したほうが……」

「黙れ!」

 苛立ち紛れにネクタイを緩める。

「あいつの祖母がいる介護施設へ向かえ」

 車が東京の街を疾走する。

 窓外を流れる景色を見つめながら、翔の思考は千々に乱れていた。

 事故か?

 逃げたのか?

 いや、まさか。俺の金がなくては生活できないはずだ。

 だが、指の間から砂がこぼれ落ちていくような、得体の知れない焦燥感が胸を締め付ける。

 介護施設の職員は言った。「桐谷さんなら一昨日いらっしゃいましたよ。海外へ留学するとか」

「海外?」翔は絶句した。「どこへ?」

「さあ……詳しいことは、何も」

 海外留学。

 その四文字が重いハンマーのように胸を打つ。

 去るつもりだ。

 あいつは本気で、俺の前から消えようとしている。

 施設を飛び出し、駐車場で立ち尽くす。

 東京は広すぎる。どこを探せばいい?

 突如、スマホが震えた。白石千夏からだ。

「神宮寺先輩、大丈夫ですか? 会議のほうは……」

「今それどころじゃない!」

 彼は怒鳴るように言った。通話の向こうで一瞬の沈黙がある。

「……桐谷雪菜を探しているんですか?」

「……どうしてそれを」

「勘です」白石の声は冷静だった。「神宮寺先輩、まさか本気で彼女のことを好きになったんじゃありませんよね?」

「俺が……」

 口を開いたが、声が出ない。

 好き?

 俺が雪菜を?

 違う、あいつはただの聞き分けのいいペットだ。玩具だ……。

「まあいいです」白石は溜息をついた。「さっき調べさせたんですが、桐谷雪菜は今朝、青葉大学附属病院で受付を済ませています」

「病院?」心臓が早鐘を打つ。「病気か?」

「産婦人科です」

 その単語は、雷撃のように脳髄を貫いた。

 産婦人科。

 頭の中で轟音が鳴り響き、全ての音が遮断される。

「もしもし? 神宮寺先輩? 聞いてます?」

 通話を切り、翔は叫んだ。

「青葉大学附属病院へ! 急いで!」

 病院の入り口でタイヤが悲鳴を上げる。

 翔は車を飛び出し、産婦人科へ直行した。

「桐谷雪菜はどこだ!」

 ナースステーションの看護師に詰め寄る。声が震えていた。

「桐谷さんの……ご家族の方ですか?」

「彼氏だ!」

 看護師は彼を一瞥し、少し躊躇ってから答えた。

「第三手術室にいらっしゃいますが、その……」

 礼も言わずに駆け出した。

 第三手術室の前。「手術中」を示す赤いランプが灯っている。

 彼は扉の前に立ち尽くし、その赤い光を凝視した。頭の中が真っ白になる。

 手術。

 産婦人科での手術。

 妊娠していたのか?

 いつから?

 なぜ言わなかった?

「申し訳ございませんが、ここで立ち止まられては……」看護師が近寄ってくる。

「雪菜は中で何の手術を受けている?」

 翔の声は掠れていた。

 看護師は困惑した表情を浮かべる。

「それは……患者さんのプライバシーに関わりますので」

「俺は彼氏だ!」翔は怒号を上げた。「何の手術か教えろ!」

 圧倒された看護師が、反射的に口を開く。

「人工……妊娠中絶です」

 ドン、と。

 その瞬間、世界が崩れ落ちた。

前のチャプター
次のチャプター