第2章 ちびっ子たちの策略がすごい
桜井瑞希には分かっていた。これは、彼が怒りを爆発させる前触れだ。
黒崎恒一――F市の王。経済の命脈を握る男で、加賀グループは大手企業。その骨の髄まで気品を纏った男が、女のほうから離婚を突きつけられて平気でいられるはずがない。自尊心が許すはずがない。
胸が引き裂かれそうでも、瑞希はもう続けたくなかった。自分ひとりだけが演じる、独り芝居を。
凛とした顔で、目尻をわずかに吊り上げる。冷たい気配が、肌の上を撫でていく。
「遊びは終わり。ダメ?」
黒崎の指先に挟まれていた煙草が、ぽきりと折れた。墨を流したような瞳が、氷の光を迸らせる。
「遊び……だと。ふん……」
酔って抱きつき、愛してると囁いたあれも――全部、芝居だったのか。
いい。実にいい。
男の圧がじわじわと迫り、瑞希の呼吸を奪っていく。胸が詰まりそうになり、彼女は深く息を吸ってから、わざと肩をすくめた。
「仕方ないでしょ。黒崎さんの財力と魅力なら、四年の結婚生活が天国みたいになると思ってた。私の見込み違い。体験としては、微妙でした」
「だから離婚して、もっと体験のいい男を探す?」
黒崎は拳を握りしめ、額に青筋を浮かべた。この女は、自分を何だと思っている。
「桜井瑞希。今のお前の金と顔じゃ、ヒモにすら相手にされない。身の程を知れ」
瑞希は冷笑した。
言えばいいのに。今の顔は本当の自分じゃない、わざと冴えない女を演じていたのだと。
そして――こうなる日が来ることも、どこかで分かっていた。四年で彼の心が動かなければ、去る。二度と会わない。愛は胸にしまい、永遠に知られないままでいい。
瑞希は黒崎の言葉に合わせるように、花が咲くみたいな笑みを作った。
「黒崎さんの言う通り。でも私は、いつだって主導権を握る側なの。たとえば今日――あなたを襲ったのは、私」
「桜井瑞希!」
低い咆哮。瞳は寒潭のように冷たい。
卑屈に見せながら、吐く言葉だけは傲慢で、自信に満ちている。腹が立つほどに。
瑞希は引き出しから一枚の紙を取り出し、ベッド脇へ置いた。声は淡々としている。
「サインして。私は何も要りません」
――四年分の想いなんて、犬にでもくれてやる。
黒崎はシーツの上の離婚協議書を手に取った。そこには、すでに瑞希の署名がある。唇の端に、自嘲が滲む。
黒崎がサインをしたのを見届けた瞬間、瑞希の鼻の奥がつんと痛んだ。胸が刃で抉られるみたいに、ずきりと疼く。
――終わった。
少しして、瑞希は荷物をまとめると、一切の迷いなく出て行った。四年間住んだ、彼の痕跡だけが残る家を。
五年後――
カフェの一角。可愛らしい二人の子どもが席に並び、目の前のノートパソコンを器用に操作していた。むちっとした小さな指が、キーボードをカタカタと叩く。
ツインテールの由衣が、隣の格好いい兄を見上げる。澄んだ瞳が不安に揺れた。
「お兄ちゃん、これでパパに会えるの? ママにバレたら、怒らないかな……」
颯太は最後のEnterを叩き、黒曜石みたいな瞳を星のように輝かせた。そこには揺るぎない自信がある。
「由衣。これがパパとママを一緒にできる、唯一のチャンスだよ。……嫌?」
由衣はぷくっと頬をふくらませ、唇を尖らせる。
「嫌じゃない。由衣も、ほかの子みたいにパパに甘やかされたい」
「なら迷わない。ママは僕らを育てるの、大変だった。そろそろパパに引き継がせるんだ」
颯太は小さな拳をぎゅっと握り、期待の光を宿す。
由衣が首をかしげた。
「パパ、ちゃんとママを見つけられる?」
「大丈夫。パパの会社のシステムはもう突破した。合図も残した。バカじゃなければ辿り着く」
