第2章
午前二時。私はエリュシオン・クラブのバーエリアの片隅で、一人、三杯目のウィスキーを見つめていた。薄暗い琥珀色の照明の下、アルコールが喉を焼く。だが、胸の奥にこびりついた屈辱までは焼き払ってくれなかった。
手のひらの傷が鈍く疼き、さきほど私が取り乱したあの瞬間をまざまざと思い出させる。
「安っぽくて、いくらでも代わりがいる」――亮介の言葉が、呪いのように頭の中でリピートしていた。
「クソ野郎……」
私は歯を食いしばり、グラスを煽った。喉を刺すような液体に、思わずむせ返る。
「そんなにウィスキーばかり、一人で飲むもんじゃないな」
背後から、低く、人を惹きつけるような声が聞こえた。私は凍りついた。その声を知りすぎていたからだ。だが、そのトーンは全く違っていた。あの冷ややかな優越感は消え失せ、代わりに優しい気遣いが滲んでいたのだ。
ゆっくりと振り返ると、そこには亮介と瓜二つの顔があった。
「あなたも私を嘲笑いに来たの? 彼みたいに?」
私の声には、警戒と皮肉が混じっていた。
拓海は首を横に振り、私にティッシュを差し出した。
「逆だよ。君は美しいと思う。特に、そうやって壊れている時はね」
私は呆気にとられた。もしその言葉が亮介の口から出たのなら、それは嫌味でしかなかっただろう。だが、拓海の瞳に嘲りの色はなく、あるのは純粋な心痛だけだった。
「あなたは……山崎拓海?」
私は自信なさげに尋ねた。
「ああ」
彼は私の隣のハイスツールに腰を下ろした。
「さっき君が上から走り去るのを見たんだ。何か早まった真似をするんじゃないかと心配でね」
「心配?」私は自嘲気味に笑った。「あなたたち兄弟って最低ね。片方は私を散々辱めて、もう片方は心配してるふり? 何のゲームなの?」
拓海の瞳に陰りが差した。
「顔は同じかもしれないが、俺は女性を道具だと思ったことは一度もない」
私は彼を見つめ、その見慣れた顔に嘘の影を探そうとした。けれど見えたのは、亮介とは全く異なる優しさだけ。なぜか心臓が高鳴った。
「じゃあ、私は何だと思ってるの?」
私は挑発的に問いかけた。
「埋もれた宝石だ」
拓海の答えに迷いはなかった。
「三年間、ずっと君を見ていた。君の才能と美しさは、兄さんには完全に見過ごされている」
え? 三年?
心臓が早鐘を打ち始めた。「私のことを……見ていた?」
「君がクラブに来た初日からだ」
拓海の眼差しは真剣で、熱を帯びていた。
「香水に集中している時の顔、あらゆる香りへの理解、そして兄さんを見る時の切ない目……全部見ていたよ」
私は驚愕して彼を見つめた。私は彼に気づきもしなかったのに、彼は三年も観察していたというの?
「でも、一度も声をかけてこなかった」
私は混乱したまま言った。
「君の目には彼しか映っていなかったからね」
拓海は自嘲気味に笑った。
「今夜まで、俺はずっとチャンスを待っていたんだ」
アルコールで判断力が鈍る中、私は自分の口が動くのを感じた。
「どんなチャンス?」
拓海は立ち上がり、手を差し伸べた。
「静かな場所に行こう。提案がある」
私は一瞬ためらったが、その手を取った。
数分後、私たちはバーの奥にある個室に着いた。柔らかいソファ、深紅の照明――それは危険なほど親密な雰囲気を醸し出していた。
私は拓海の向かいに座った。酒で頬は火照っていたが、頭はさっきよりはっきりしていた。この環境は三日前のあの運命の夜を思い出させ、無意識に緊張が走る。
「それで、提案って何?」
私は平静を装い、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
拓海は身を乗り出し、その声を低く、誘惑的に響かせた。
「三ヶ月間、俺だけの女になれ。本当に大切にされるとはどういうことか、教えてやる」
瞳が一瞬で細くなった。また取引? さっき亮介に風俗嬢のように辱められたばかりなのに、今度は弟が私を買おうとしているの?
「これって、あなたたち兄弟のゲームなんでしょ? もうおもちゃ扱いされるのは御免だわ」
私の声は、怒りで震えていた。
「そうじゃない、と言ったら?」
拓海は手を伸ばし、私の頬を撫でた。その感触は羽のように優しい。
「兄さんよりも俺のほうが君を理解していると証明するチャンスを、ずっと待っていたと言ったら?」
その感触に、全身が震えた。同じ手、同じ温もりなのに、感覚は天と地ほども違う。亮介の接触には独占欲が宿っていたが、拓海の愛撫はまるで崇拝のようだった。
「どうして三ヶ月なの?」
私の声は微かに震えていた。
「君が彼を忘れて、俺に恋をするのに十分な時間だからさ」
拓海の親指が私の唇の端をなぞる。
「そして、彼が何を失ったのかを悟るのにも十分な時間だ」
復讐のチャンス!
心臓が早鐘を打ち始めた。亮介を後悔させる――それこそが、私が最も渇望していたことではないの?
「もし……もし同意したとして」私は理性を保とうと努めた。「何の保証があるの?」
拓海は微笑み、スーツのポケットから小切手を取り出した。
「これは前払いだ。三ヶ月で五千万。何が起きようと、この金は君のものだ」
私は息を飲んだ。五千万――私の給料の十年分だわ!
「これは取引じゃない」拓海は私の思考を読んだかのように言った。「俺の誠意だ。男に本当に大切にされるとはどういうことか、君に見せてやりたいんだ」
「同意したら、彼みたいに私を辱めたりしない?」
声にはまだ迷いがあった。
拓海は私の手を握りしめた。誓いを立てるかのような真剣な眼差しだ。
「決してしない。今から君は俺の宝物だ。皆にそう知らしめてやる。兄さんも含めてな」
私は目を閉じた。今夜の屈辱が蘇ってくる。怒りと絶望で息が詰まりそうだった。
再び目を開けた時、私の中で復讐心が炎のように燃え上がっていた。
「分かったわ。でも、もし彼みたいに私を辱めるような真似をしたら……」
「決して」
拓海は私の手の甲に口づけを落とした。崇拝するような仕草だった。
「この瞬間を、あまりに長く待ちわびていたんだ」
個室内の空気が一瞬で熱を帯びた。拓海の燃えるような視線を感じ、心臓が雷鳴のように轟く。
「それで」私は深呼吸をした。「いつから始めるの?」
拓海の笑みは危険で、魅力的だった。
「今だ。今夜は俺の部屋に泊まるといい。明日には、君が俺の女だとクラブ中が知ることになる」
彼が言い終わるか終わらないかのうちに、個室のドアが乱暴に開かれた。
入り口に、見慣れた冷酷な姿が現れる――亮介がそこに立っていた。その瞳は嵐の空のように暗い。
心臓が止まるかと思った。
「やっぱりな……」
空気を凍らせるほど冷たい声。
「愛すべき弟よ。俺の捨てたものを拾うのが本当に得意だな」
空気が一瞬で凝固した。
屈辱が津波のように押し寄せ、私を飲み込もうとする。救いを見つけたと思ったのに、亮介はいとも容易く私を粉々に砕く。「捨てたもの」――彼の目には、私はただのゴミでしかないの?
だが今回、拓海が立ち上がった。
彼は私を庇うように前に出た。静かだが、危険な響きを含んだ声。
「兄さん、一つ間違ってるぜ」
「何だと?」亮介が眉を上げる。
「綾香は一度だって兄さんの所有物じゃなかった。だから俺が何かを『拾う』なんて話にはならない」
拓海の手が、守るように私の肩に置かれた。
「だが兄さんは――世界で一番大切な女性を失ったのに、それに気づいてすらいない」
世界で一番大切な女性……
そこに座り、張り詰めた空気の中で対峙する兄弟を見つめながら、私は唐突に理解した。想像以上に複雑なゲームに巻き込まれてしまったのだと。
私が、兄弟を争わせることになってしまったのだ。
「もう十分よ」
私は不意に立ち上がった。声は震えていたが、意志は固かった。
「山崎亮介、あなたははっきりさせたじゃない――私なんてどうでもいいって。だから、私の選択に口出ししないで」
私は拓海に向き直り、深呼吸をした。
「あなたの提案、受けるわ。今この瞬間から」
亮介の瞳に読み取れない何かが走ったが、すぐに冷徹な表情に戻った。
「勝手にしろ」
彼は大股で個室を出て行き、私と拓海が静寂の中に取り残された。
「さて」
拓海は私の手を撫でた。その瞳は勝利の光と、底知れぬ何かで輝いていた。
「それじゃあ、本当の献身というものを見せてあげるよ」
