第4章
翌日の午後、私は予定通りエリュシオン・クラブに到着した。昨晩の大成功は、未だにどこか夢のような出来事に感じられた。
拓海が選んでくれたラベンダー色のドレスを身にまとい、私は軽やかな足取りで大ホールへと足を踏み入れた。巨大な掃き出し窓から差し込む午後の陽光が、大理石の床に眩い輝きを落としている。
「白石さん! 昨日の作品、本当に素敵でした!」
「あの『リバース』の香水、手元に届くのが待ち遠しいですわ!」
歩くたびに、人々が心からの称賛を込めた眼差しで挨拶してくる。なんて素晴らしい気分なのだろう。周囲の目が完全に変わったのを感じた。かつてのような哀れみや同情ではない。そこにあるのは、評価と敬意だった。
拓海に会うために香水工房へ向かおうとしたその時、聞き覚えのある声が私を呼び止めた。
「綾香」
私は反射的に身を硬くし、ゆっくりと振り返る。……彼だった。
亮介が少し離れた場所に立ち、ウィスキーのグラスを片手に、その深い瞳で私をじっと見つめていた。かつてなら、そんな視線を向けられただけで胸が高鳴り、頬を染めていただろう。
だが今は、嫌悪感しか湧いてこない。
「山崎さん」
私は、クラブの一般会員に対するような、極めて丁寧かつ他人行儀な声色で応じた。
彼の瞳に傷ついたような色が走り、それを見て私は復讐心に満ちた暗い喜びを覚えた。いい気味だわ。冷たくあしらわれる気分を味わえばいい。
「話があるんだ。あの日のことについて……」
彼の声にはいつもの冷静さがなく、どこか切迫した響きがあった。私は思わず唇を歪め、嘲るような笑みを浮かべた。
「あの日? いつのこと? 私を風俗嬢のように扱ったあの日のこと?」
一語一語、軽やかに言い放つ。彼の顔色が土気色に変わっていくのを眺めながら。
あの高慢な亮介でも、こんな顔をするのね。私の言葉で傷つくこともあるんだ。
「君は……」彼は何かを探るように私の目を見つめた。「変わったな」
「ええ、自分の価値を知ったの」私はハンドバッグの位置を直し、この支配感を噛み締めた。「さあ、そこをどいて。これから拓海に会いに行くの」
通り過ぎようとすると、彼は手を伸ばして私の行く手を阻んだ。その瞬間、懐かしいシダーウッドの香りが鼻をかすめた。かつて私を陶酔させた香り。
けれど今は、あの屈辱的な夜を思い出させるだけだった。
「待ってくれ、俺は……」
「俺は、何?」私は立ち止まり、彼の目を真っ直ぐに見据えた。その瞳の奥に、隠しきれない狼狽と不安、そして脆さが見えた。「謝罪でもするつもり? それとも、私がどれほど安っぽくて代わりの利く存在か、また思い出させてくれるのかしら?」
彼は口を開いたが、言葉が出てこないようだった。
かつて見上げていた男が、これほど惨めな姿を晒している。かつてないほどの優越感が胸を満たした。これが復讐というもの? なんて胸がすく思いなのだろう。
「そんなつもりじゃ……」
「そんなつもりじゃなかった、だって? 私の尊厳を踏みにじったことも? 皆の前で恥をかかせたことも? 一夜限りの遊び道具として扱ったことも?」
自分でも驚くほど冷静な声だったが、その言葉の一つ一つは心の底から絞り出したものだった。
彼の表情が完全に崩れ落ちた。
「まあいいわ。他に用がないなら、どいていただける?」
私は彼を避けて香水工房へと歩き出した。背中に彼の焼けつくような視線を感じながら。彼が見ているのはわかっていた。彼が苦しんでいるのもわかっていた。そして、もうどうでもよかった。
香水工房に戻ると、温かい香気がすぐに私を包み込んだ。ここは私だけの大切な場所、拓海が作ってくれた安らぎの空間。
「綾香、戻ったのかい?」
拓海が背後から近づき、優しい声で私の肩を抱いた。
「ええ、ちょっと不愉快な人に会ってしまって」私は彼の腕の中に身を預け、愛されているという実感を噛み締めた。
「昨晩の君は、息をのむほど美しかったよ」彼は私の耳元で囁いた。
私は振り返って彼を見つめた。胸が温かさで満たされていく。「あなたが私を信じてくれたからよ……」
彼は頭を下げ、優しく唇を重ねた。その瞬間、私は完全な安心感と愛に包まれた。亮介との時に感じたものとは全く違う――所有でも征服でもない、慈しみと守護。
情熱的な口づけを交わしていたその時、彼の携帯電話が鳴った。
「ごめん、綾香。大事な電話だ」彼は私の額に軽くキスをした。「すぐに戻るよ」
私は頷き、香水の調合に意識を戻そうとした。だが、ドアの隙間から、誰かが外に潜んでいる気配をあいまいに感じ取った。
数分後、ドアの方から急いた足音が聞こえてきた。拓海が戻ってきたのだと思ったが、顔を上げると、そこには激昂した亮介が立っていた。
「そんなにすぐにアイツの腕の中に飛び込むのか? 俺が君を振ってからまだ一週間も経っていないんだぞ!」
彼の声は枯れ、その瞳には今まで見たこともないような怒りの炎が燃え盛っていた。
「私を問い詰める権利なんて、あなたにあるの? 私は安っぽくて代わりの利く存在だって言ったじゃない」
私は顎を上げ、反抗的な視線で彼を見返した。
彼は大股で私に歩み寄ると、私の手首を掴んで強引に引き寄せた。作業台の縁に腰を強く打ちつける。
「離して!」
振りほどこうとしたが、彼の力はあまりに強かった。
「あいつが本気で君を愛してるとでも思ってるのか? あいつは、俺が要らないと言ったものを手に入れられると証明したいだけだ!」
彼は作業台と自分の体の間に私を完全に閉じ込め、両手を私の脇についた。
「それに君は……くそっ、君は俺のものだ!」
「あなたのもの? いつ私があなたの所有物になったの?」
私は冷笑し、彼の胸を押し返したが、彼はびくともしなかった。
「俺のものだ! 3年前に初めて俺のために香水を作ったあの瞬間から!」彼の声は低く、危険な響きを帯びていた。片手が不意に私の顎を掴み、無理やり視線を合わせさせる。「君が初めて俺を見た瞬間からだ! 他の誰かのものになるなんて許さない!」
「山崎亮介、あなた狂ってるわ!」
その言葉が唇から離れるか離れないかのうちに、彼が突然覆いかぶさり、私の唇を奪った。
それは優しいキスではなかった。怒りと独占欲に満ちたキスだった。重く、切迫していて、私を貪り尽くそうとするかのようだった。私は必死に抵抗し、拳で彼の胸を叩いたが、彼はさらに強く私を抱きしめるだけだった。
「んっ……離し……んんっ!」
私の抗議の声は、彼の唇によって封じ込められた。
彼は狂おしいほどの渇望を込めて、深く口づけをしてきた。その瞬間、私の頭は真っ白になり、体が勝手に彼のキスに反応してしまった。
これは私が3年間夢見ていた抱擁だった。それなのに今は、怒りと屈辱で満たされている。彼を憎んでいるのに、体の反応が理性を裏切っていく。
ようやく彼が私を解放した時、私たちは二人とも荒く息を切らしていた。
「ほらな」親指で私の腫れた唇をなぞりながら、彼は枯れた声で言った。「君の体はまだ俺を覚えている」
「最低!」私は平手打ちをしようと手を振り上げたが、即座に手首を掴まれた。
「ああ、俺は最低な男だ。だが君は俺のものだ!」彼の瞳には危険な光が宿っていた。「今誰と一緒にいようが、君は決して俺を忘れられない!」
「素晴らしい見世物だな、兄さん」
入り口から聞こえてきた拓海の声は、背筋が凍るほど冷ややかだった。
亮介が勢いよく振り返る。私はその隙に彼を突き飛ばし、乱れた服を直した。唇はまだひりひりとし、心臓の鼓動は治まらない。
「相変わらず強引な手段がお好みのようだな」拓海がゆっくりと部屋に入ってくる。その瞳は激しい怒りに満ちていた。「だが、彼女はもう俺の女だ」
「いつまでも俺のものだ!」亮介は悪びれる様子もなく、さらに激昂した。「たった数日で三年の想いが変わるとでも? 寝言は寝て言え!」
「想いだって?」私はようやく声を取り戻した。「何が想いよ? 私を道具として利用するのが、あなたの言う想いなの?」
私は手の甲で唇を荒々しく拭い、怒りに燃える目で彼を睨みつけた。
「無理やりキスして何が証明できるの? あなたが女性を尊重できない最低な男だってことだけよ!」
拓海が私のそばに来て、優しく唇の様子を確かめた。「怪我はないかい?」
「平気よ」それでも私の声は震えていた。
「上等だ、兄さん」拓海は亮介に向き直った。その視線は恐ろしいほど冷徹だった。「一線を越えるとはどういうことか、教えてやる」
「一線だと? 元々彼女は俺のものだったんだぞ!」
「いや、俺のものだ!」拓海は私を腕の中に引き寄せた。「これ以上彼女に指一本でも触れてみろ……」
張り詰めた空気がさらに重くなり、二人の兄弟は睨み合ったまま動かない。
その時、ふと香水工房のドアが完全に閉まっていないことに気づいた。廊下を人が通る足音が微かに聞こえる――私たちの口論を聞かれたかもしれない。
心臓が高鳴った。恐怖からではない。かつてない複雑な感情が胸に渦巻いていたからだ。
二人の男に奪い合われるという虚栄心は満たされた。だが同時に、恐ろしい疑念が心に根を下ろし始めていた。
彼らにとって私は一人の女性なのか? それとも兄弟の駆け引きの道具に過ぎないのか?
「もういい加減にして」
私は不意に口を開いた。自分でも驚くほど冷静な声だった。
「本当に何かを争うつもりなら、ルールは私が決める」
兄弟二人が同時に私を振り返り、その目に驚きの色が走った。
「私はあなたたちが勝手に処分できるモノじゃない」私は二人を真っ直ぐに見据えた。「私を望むなら、単なる張り合いじゃなく、本当に愛していると証明して見せて」
そう言い放ち、私は二人の男の間を通り抜け、そのまま香水工房を出て行った。
後に残された沈黙は、先ほどの口論よりも息苦しいものだった。
