第1章

「ピピピッ!」

「全員、警戒!」

「コードネーム『フォックス』、サザビーズに出現! 今夜の標的は――数々の伝説に彩られた秘宝『紅瑪瑙』だ!」

「絶対に逃がすな!」

「全員、警戒!」

Y国ロンドン。真夜中のニュー・ボンド・ストリートに、けたたましいサイレンが唸りを上げた。

世界最上級の精鋭と名高い王立特殊作戦部隊が、最高レベルの武装で出動。オークション会場の外は、文字どおり水も漏らさぬ包囲網。

――だが、誰も知らない。

会場の中では、すでに薄い靄が漂い、富豪も警備もスタッフも、みな床に倒れ伏していたことを。

怒りと恐怖で見開かれた無数の視線。その中心にいたのは、招待客として入場していた一人の女だった。黒いベルベットのイブニングドレス。妖艶で、なおかつ優雅。

彼女は慌てる素振りひとつ見せず、ハンドバッグから防毒マスクを取り出す。手慣れた動きで顔に装着すると――

ふんふん、と鼻歌まじりに。十数センチのピンヒールをコツコツ鳴らしながら、オークション台へ上がった。

そして次の瞬間。

髪に挿していたヘアピンを抜き取り、ぽきりと折って細い金属線にする。『紅瑪瑙』が収められた金庫のダイヤル錠へ差し込んだ。

「カチッ」

世界に誇る難攻不落の錠が、あっさり開く。

事情を知らない者が見れば、世間知らずの名門令嬢が気まぐれに舞台へ上がった――そう見えるだろう。

「皆さま、ほんっとうにごめんなさい」

女は口元を吊り上げ、監視カメラへ小さく微笑む。

「一晩付き合わせちゃったわね。じゃあ――お宝は遠慮なくいただくわ」

「おやすみ」

そう言い放つと、紅瑪瑙を堂々と掌へ収めた。

そう。彼女こそ、各国の大統領府も、政財界の大物の邸宅も、軍火商の豪邸も、自分の庭のように出入りする――世界一の怪盗。

『フォックス』。

出自は不明。雇い主も不明。

ただ、特工としては狐のように狡猾で、怪盗としては世界を荒らし回る。

国際地下世界で唯一、S級最上位の“災厄”として恐れられる危険人物。

けれど外の人間は知らない。

彼女には、記憶の奥底に埋めた本当の名がある。

――桐生椿。

「椿……椿……」

幼い頃、実の母が寝かしつけるときに囁いた、あの柔らかな声。

年月が遠すぎて、覚えているのは母の微笑みだけ。身の上に繋がるものは、何ひとつ思い出せない。

桐生椿は紅瑪瑙を手に入れると、いつものように撤収の機をうかがった。

だが――背を向けた、その瞬間。

「パンッ!」

突如の銃声が静寂を裂く。

椿は反射で身を捻った。弾丸は耳元すれすれを掠め、背後の花瓶を正確に粉砕する。

「フォックス。今日はもう逃がさない」

低い男の声。

次いで、会場二階から一つの影が跳び降りた。

黒い戦闘服が、鍛え抜かれた筋肉の線を浮かび上がらせる。身長は一八八。抗いようのない圧が、空気ごと押し潰す。

整った顔立ちには、容赦のない殺気が張り付いていた。

男の顔を認めた椿は、目を細める。

「へえ。誰かと思ったら――戦神じゃない。久しぶりね」

九条蓮。世界最強、最恐とまで噂される男。

彼の追跡から逃げ切った者はいない――そう言われている。

実際、フォックスである彼女も、すでに三度、痛い目を見ていた。

誇張抜きで、九条蓮は彼女の怪盗人生における最大の天敵。

それでも彼女は、彼の目の前で五十八件もの文物を奪ってきた。

彼の権威を踏みにじったのだ。つまり――この男は、彼女に執着している。

「でも悪いわね。今日の紅瑪瑙は、どうしても持っていくの」

椿は笑みを消し、手首を翻す。銀針が雨のように飛んだ。

九条蓮は瞬時に身を躱す。

その隙に椿はオークション台へ跳び、身を翻して二階へ。

「追え!」

九条蓮が眉を寄せ、イヤーマイク越しに命じる。

「全出口を封鎖しろ!」

こうして、激しい追走劇が長廊下で始まった。

動く椿は、狡猾な狐そのもの。十数センチのヒールにタイトなドレスでも、速度も身のこなしも落ちない。

背後から九条蓮が執拗に迫る。

階段室で交錯した瞬間、椿が笑いながら言った。

「ねえ九条閣下。アジアから北米、今度はヨーロッパまで――ずっと私を追い回してさ」

「まさか、一目惚れでもした?」

戯けた口調とは裏腹に、拳と脚は容赦なくぶつかり合う。

九条蓮は終始、冷え切った顔。

「くだらん。物を渡せ」

椿は後方宙返りで拘束を外し、ついでに彼の手首を蹴り上げる。

銃が床に落ち、乾いた音を立てた。

九条蓮は戦法を切り替えた。近接戦へ。堅実で、鋭い。軍人特有の殺気が一撃ごとに宿る。

じわじわと椿を追い詰め、逃げ場を削る。

狙いは読めた。

椿は太腿から隠していた短刀を抜く。刃を下に向け、九条蓮へ突き込んだ。

刃と拳影が交差する。

そして――

椿の刃が九条蓮の袖を裂き、細い血の筋を作った。

同時に九条蓮が彼女の細い手首を掴み、力任せに捻る。

「カラン!」短刀が落ちた。

「フォックス。――確保だ」

息を荒げながら、九条蓮が告げる。

だが椿は笑った。

「へえ? そうかしら」

次の瞬間、もう片方の手がふっと上がり、手首の下に隠していた閃光弾が床へ転がる。

眩い光。濃い煙。

廊下が一瞬で白く塗り潰された。

九条蓮は反射で目を閉じ、開いたときには――椿の姿は、もうない。

「……クソッ!」

九条蓮が壁を殴る。

そのとき、彼は気づいた。袖の内側に、いつの間にかトランプが一枚差し込まれている。

――ハートのA。

イヤーマイクから部下の叫び声が飛ぶ。

「戦神! 三号廊下で目標を確認!」

月光の下、九条蓮は対面の三号廊下を走る椿を捉えた。

彼女は振り返り、挑発するように投げキスを放つ。

「フォックス……!」

九条蓮は歯を食いしばる。

「必ず、俺の手で捕まえる」

踵を返し、指揮センターへ向かいながら最終命令を下した。

「全出口を封鎖。今夜、身元不明者は一切出すな」

「――彼女は、ここから出られない」

――

一方、椿は追跡を振り切ると、オークション会場内の男子トイレへ滑り込んだ。

九条蓮が張った網は厄介だ。正面突破は無理。別の道を作るしかない。

個室で工具箱を取り出し、手早く変装を剥がす。

白いワンピースに着替えた。

清純な顔立ち。小さく整った造作。透けるような肌。

淡い白が、まるで凡世に迷い落ちた仙女のように見せる。

先ほどまでの妖艶さは、欠片もない。

――だが、これこそがフォックスの素顔だった。

着替え終え、トイレを出た瞬間。

椿の耳がぴくりと動く。

……来るの、早いじゃない。

この程度の変装だけでは、九条蓮の目を誤魔化せない。

椿は踵を返し、左の廊下へ走った。

「戦神! 未捜索区域はここだけです!」

三秒も経たず、捜索員の声が背後で響く。

「続けろ!」

九条蓮の声が鋼のように響いた。

「必ず近くにいる!」

「了解!」

椿は十字廊下へ出る。

正面は行き止まり。左右と背後から追手が迫る。

――ここまで?

そのとき。

「ギィ……」

前方のプライベート・ラウンジの扉が開き、オークションのVIPたちがぞろぞろと出てきた。

椿は反射で右手を返す。指の間から鋭い刃が覗く。

道がないなら、人質を取るしかない。

そう計算した――その刹那。

「美月? 国内にいるんじゃなかったの? どうしてここに……?」

驚いた声が飛ぶ。

先頭にいたのは、儒雅な中年男性に腰を支えられた、上品な美婦人。

彼女が、椿を見つめていた。

その顔を見た瞬間、椿の呼吸が止まる。

「……違う。あなたは美月じゃないわ」

美婦人は目を凝らし、すぐに断じた。

所作も、気配も、まるで違う。

そして――椿の左目の下にある泣きぼくろを見た瞬間、女の表情が崩れた。

「あなた……まさか……」

次の瞬間、感情が決壊する。

涙を溢れさせながら、よろめくように椿へ駆け寄り、強く抱きしめた。

「椿……! 私の子……椿よ……!」

「十三年……十三年も探したの……! お父さんもお母さんも……ずっと……!」

椿は他人に触れられるのを嫌う。避ける手段はいくらでもあった。

だが、その声が――あまりにも、記憶の奥の柔らかな呼び声と重なった。

……母さん、なのか。

彼女は初めて、他人の抱擁を拒まなかった。

そして思い出す。自分には確かに、双子の姉がいたはずだ。

「ザッ、ザッ、ザッ!」

美婦人が椿を抱きしめた、その同時。

三方向から追手が廊下へ雪崩れ込む。

深い黒の軍靴が床を踏み、九条蓮の冷たい横顔が現れた――。

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