第2章
「報告、戦神! フォックスの痕跡、見当たりません!」
「こっちもだ!」
部下たちが周囲を包囲し、手分けして洗い直す。
九条蓮は眉間に皺を刻んだ。
ここが最後の未捜索エリア。建物の構造からしても、これ以上、身を隠せる場所はない。
なら――。
万物を絡め取るかのように黒い瞳が、鷹のように鋭く、桐生椿のいる方へと向けられる。
「……あいつらは何者だ」
「VIPラウンジの客です。オークション参加者で、フォックス出現で動揺したため、こちらに避難させています」
九条蓮は目を伏せるようにして、さらに視線を沈めた。
とりわけ、人混みの中で――美しい婦人にきつく抱きしめられている、白い服の少女を見つけた瞬間。
一歩、足を踏み出す。
そのとき。
「戦神! 西側の男子トイレで、フォックスの痕跡を発見!」
「追え!」
九条蓮は踵を返し、疾風のように去っていった。
その背が完全に視界から消えたのを見届けてから、桐生椿は婦人の腕の中から、そっと顔をのぞかせる。
思ったより簡単に、九条蓮の一回目の捜索をやり過ごせた。余計な乱戦も回避。
けれど――。
母親、か。
桐生椿の唇が、悪戯っぽく弧を描く。
十数年ぶりの「家族」ってやつは……なかなか新鮮だ。
「あなた、この子が……椿なの」桐生雪菜は椿の手を離さないまま、傍らの儒雅な中年男性へ、震える声で言った。
「間違いない……! 似てる、あまりにも……! 美月と瓜二つだ!」桐生武治も目を潤ませ、椿を見つめる。声だけは必死に優しく保とうとしていた。「今日の会場には、とんでもない怪盗が紛れ込んだって聞いた。椿、怖かっただろう……もう大丈夫だ。これからは父さんと母さんがいる。帰ろう。守るから……」
「そうよ……さっきの人たちも、目つきが怖くて……」雪菜は椿を抱き寄せ、夫に縋るように言う。「椿が怯える前に、早くここを出ましょう」
――
男子トイレ。
九条蓮が部下を連れて踏み込むと、案の定、フォックスのものと思しき黒いベルベットのイブニングドレスと、簡易な変装道具が残されていた。
「狡猾すぎる……変装までしてやがるのか!」
「戦神、どうします?」
九条蓮はしゃがみ込み、黒いドレスを拾い上げる。
ふわり。
淡い香水の残り香に、少女特有の甘い体温が混じって、鼻先をくすぐった。
……この匂い。
九条蓮の背筋が、ぞくりと冷える。
さっき、VIPラウンジの前で――美婦人に抱かれていた、白い服の少女から漂っていた匂いと同じだ。
「……クソ」
また、やられた。
九条蓮の顔色が一気に鉄の色へ沈む。殺気を貼りつけた横顔で言い放った。
「通達。さっきVIPラウンジの外にいた白い服の少女を、全力で止めろ」
「了解!」
だが、遅かった。
桐生椿はすでに桐生武治と桐生雪菜に連れられ、VIP専用通路からオークション会場を離脱。J国行きの国際空港へ向かっていた。
――
翌日。
桐生椿が桐生夫妻とともに着陸するより早く、彼女の帰還はJ国中に知れ渡った。
とりわけ、貴胄がひしめく帝都では騒ぎが大きい。
帝都屈指の名門・桐生家が十三年前に娘を失ったことは、もはや公然の事実だった。そして桐生家の長女・桐生美月は、社交界で才色兼備の象徴。
その双子の妹、桐生椿が見つかったとなれば――波が立たないはずがない。
各メディアは我先にと報じた。
それでも桐生夫妻は椿を徹底的に守り、目立たぬように桐生家へと連れ帰る。
桐生家の邸宅。
灯りは眩いほどに煌々と点り、本家も分家も、桐生宗一郎を中心に、リビングには人が幾重にも詰めかけていた。
桐生椿が夫妻に続いて玄関をくぐった瞬間、数十の視線がレーダーのように突き刺さる。
椿は思わず目を細めた。
闇に紛れて生きるナイトエージェントとして、殺しも強奪も、盗みもやってきた。だが、こんなふうに白日の下で見世物にされるのは初めてだ。
……落ち着かない。
「父さん、椿だ」桐生武治が、目の前の七十前後の老人へ、堪えきれないように告げる。「この子は苦労したんだ。外で、ずいぶん辛い目に遭ったはずだ。今回だって、俺たちが行ったオークション会場で働いてなかったら、いつ見つけられたか……」
言いながら、武治の声がかすれる。
「椿、ほら……こちらがお前の祖父だ。『おじいちゃん』って――」
武治の様子だけでも、桐生家の実権が誰にあるかは明白だった。掌を握っているのは、桐生宗一郎。
桐生椿は幼い頃に家族と離れ、任務の中で孤独と冷酷さを身につけた。けれど、持ったことのない親や家族には、やはり興味がある。
うまくやれるなら――やってみたい。
椿が「おじい……」と口を開きかけた、その瞬間。
「もういい」
前方から、露骨に苛立った声が落ちた。
桐生宗一郎が杖を床へ叩きつける。ドン、ドン、と重い音。椿を見る目には、露ほどの温度もない。
「田舎者が戻っただけで、何を大騒ぎしている。歳はいくつだ。人を見たら先に挨拶もできんのか。礼儀も躾も、欠片もない」
吐き捨てるように続ける。
「こんなものを外へ連れ出したら、桐生家の恥だ」
宗一郎は桐生家の創業者で、もともと女児を好まない。男に劣ると決めつけている。
そのうえ、桐生家には男の後継がいない。
唯一の慰めがあるとすれば、大孫娘の桐生美月が「出来がいい」ことだった。淑女の教養も礼法も完璧、格闘や射撃や医療の分野まで、同世代の頂点――桐生家の名を汚さない存在。
だが、椿はどうだ。
「父さん……」武治が気まずそうに声を落とす。
雪菜は武治よりも立ち回りが上手かった。椿の手を引き、話題をずらすように笑みを作る。
「お義父さま、椿は今日戻ったばかりで、まだ家に慣れていないだけです。でもご安心ください。美月と双子ですもの、きっと賢い子です」
そう言って、雪菜は桐生美月へ顔を向けた。
「双子って不思議よね。小さい頃は本当に、いつも一緒だった。こんなに長く離れていたんだもの、姉妹で話したいこともたくさんあるでしょう」
「美月、椿の手を取ってあげて。椿も……お姉ちゃんって呼んでみて」
桐生椿はそこで初めて、実の姉をまじまじと見た。
十八歳。身長は一六五ほどで、姿勢は端正。名の知れた海外ブランドの花柄ワンピースに、ツインテール。椿と九分似た卵型の顔立ちが、いかにも箱入りの令嬢らしい。
帝都の上流としては十分すぎる。
――そして美月もまた、椿を値踏みするように見ていた。
「ふん。私、清掃員の妹なんていらない」美月は露骨に顔をしかめ、宗一郎の背へ隠れる。「お父さん、お母さん……どこで拾ってきたの、そのじゃじゃ馬娘。ちょっと私に似てるからって、妹だって? DNA鑑定でもしたの?」
嘲るように言葉を重ねる。
「騙されてるんじゃない? 清掃員だなんて適当に言って。私、少し前に海外ニュースでこの顔を見た。どこかの国際富豪に囲われてる愛人だって……!」
その一言で、宗一郎の顔がさらに暗く沈んだ。
使用人たちの視線まで、露骨に冷たくなる。
「美月!」雪菜の声が裏返る。「どうしてそんなことを言うの! あなた、いつもそんなふうに育てた覚えは――」
「美月!」武治も低く叱りつけた。「今すぐ椿に謝れ!」
「私は間違ってないもん……!」美月は唇を尖らせる。「謝る必要なんてない。だったら調べればいいじゃない。海外でもネットでも!」
空気が硬直する。
そのとき。
「……チッ」
からかうような、笑いを含んだ女の声が、場を切り裂いた。
「証拠もないのに、よくもまあ好き勝手言えるわね。それが桐生家のご令嬢の作法と教養?」
「泣き喚く奥さんみたい」
「今日見ただけで分かった。桐生家って、その程度なのね」
言ったのは――桐生椿だった。
一同、言葉を失う。
見つかったばかりの娘なら、普通はおっかなびっくりで、家に溶け込もうとするはずだ。なのに椿は、長女を「泣き喚く奥さん」呼ばわりし、桐生家そのものを切り捨てた。
宗一郎が真っ先に爆発した。
「見ろ! 見ろ! これが連れ戻した娘だと? 何だその口の利き方は! 外育ちは、やはり躾がなっておらん!」
「縁起でもない!」
宗一郎は杖を握り直し、怒鳴りながら椿の前へ詰め寄る。
「いいだろう。今日ここで、桐生家の家法と規矩を叩き込んでやる!」
「外で『椿様』を拾ってきたんじゃない。女のごろつきを連れ帰ったと言われたくなければな!」
次の瞬間。
宗一郎の杖が、容赦なく振り下ろされた。
老人とはいえ、元軍人。速い。重い。避けられるはずがない――誰もがそう思った。
「父さん!」
「お義父さま、やめて――!」
武治と雪菜の顔色が変わり、周囲の息が一斉に詰まる。
だが。
杖が椿に届く、その寸前。
桐生椿は手を唇元へ添え、わざとらしく驚いた顔を作った。
そして――目も上げないまま、片手をすっと伸ばす。
パシッ。
半ミリの狂いもなく、振り下ろされた杖を、空中で掴み取った。
軽く引く。
それだけで、杖は椿の手の中へ落ちる。
次いで。
椿は、皆の目の前で、その太い杖を――真ん中から折った。
「バキッ!」
まるで箸でも折るみたいに、二つに。
折れた杖が、ガタン、と床へ転がる。
静まり返った空間に、少女の不機嫌な声が通った。
「言い忘れてた。私、桐生椿は昔から気が短いの。物を向けられるのが一番嫌い」
「血が繋がってるだけの祖父でも、例外じゃない」
「だから――」
「次があったら、折れるのは杖じゃない。あなたの首よ」
