第3章

「わっ……!」

 その場にいた全員が、息を呑んだ。

 ――なんだ、その言い草は。

 『次があったら、次に折るのはお前の首だ』だと? ようやく家に戻ったばかりのじゃじゃ馬娘が、祖父に向かって吐く台詞じゃない。

 しかも彼女は、老当主の杖をひったくると、いとも簡単にへし折ってみせた。あれは花櫚木の特注品だ。そうそう折れる代物じゃない。

 いったい、どうやって――。

 だが人々は、すぐに都合のいい結論へ飛びついた。外で長年じゃじゃ馬として生き、虐げられ続けたせいで、変な蛮力だけが身についたのだろう、と。

 まるで田舎の下働き女みたい。令嬢の品格なんて欠片もない。

 桐生椿への蔑みが、さらに濃くなる。

「き、きさま……この不孝者がっ!」

 老当主は怒りで顔を真っ赤にし、桐生椿を指さしながら胸元を押さえた。言葉もろくに回らない。

「家の恥だ……まったく、桐生家に戻ってきたのが、こんな野蛮なものとは! 年長者に手を上げる気か!」

「謝れ! 今すぐ謝罪しろ!」

「さもなくば、わし――桐生宗一郎は、お前を孫とは認めん!」

 それは脅しだった。

 “認めない”というのは、帝都で顔を上げて生きるなと言うのと同じだ。守る者がいなければ、誰にでも踏みにじられる。

「父さん……!」

 桐生武治と桐生雪菜が、同時に眉をひそめた。

 ところが――。

 桐生椿は鼻で笑い、容赦なく言い返した。

「謝るべきは、あんたのほうでしょ」

「一つ。私はあんたに育てられてない。なのに、叩く権利がどこにあるの」

「二つ。そもそも私を産んだのはあんたじゃない。資格もない」

「それに――勘違いしないで。私はお父さんとお母さんのために戻っただけ。あんたが私を認めようが認めまいが、好きにすれば?」

 狐のように狡猾に生きてきた。千変万化の特工である彼女が、本気で桐生夫妻と戻る気がないなら、サザビーズを出た時点で逃げ道はいくらでもあった。

 戻ったのは、両親のそばにいるため。

 彼女を見下す祖父のためではない。

 人々は再び、桐生椿の大逆不道な言葉に凍りついた。

「き、きき……っ」

 老当主は今度こそ卒倒しかけ、呼吸が荒くなる。

 一瞬で、家政婦たちと使用人、家庭医、それに桐生美月が老当主の周りへ雪崩れ込み、わたわたと介抱を始めた。

「椿……」

 桐生武治は老当主と桐生椿を交互に見て、顔を曇らせる。

 だが桐生椿は、あっさり遮った。

「大丈夫。死なない」

「軽い喘息に、肝の気が上がってるだけ。怒っても死にゃしない」

 その一言で、場が完全な沈黙に沈んだ。

 ――当たっている。

 老当主に軽い喘息と、肝の不調があるのは事実だ。だが、なぜ。

 戻ったばかりのじゃじゃ馬娘が、そこまで正確に言い当てられる?

 周囲だけではない。人中を押されて意識を取り戻した老当主の目にも、驚愕が走った。

 けれど桐生椿は、こんな茶番に付き合う気などない。

 腕を組み、狐のように気怠げな気配を纏ったまま、人混みの中から家政婦を一人選び取る。

「疲れた。部屋、用意してあるんでしょ」

「早く案内して」

 初めて帰ってきた娘の遠慮など、どこにもない。

 その家政婦も最初は桐生椿を見下していた。田舎のじゃじゃ馬だと思っていたのだ。だが、さっき老当主に叩きつけた気迫があまりに恐ろしい。

 いま睨まれただけで、六月なのに真冬の寒さが背筋を走った。

「こ、こちらへ……椿様……」

 階段を上がる途中、下から桐生美月の憤った声が聞こえてくる。

「お父様! お母様! 見たでしょう、あれ! お祖父様があんなになってるのに、黙って出ていくなんて! 外で、よほど後ろ暗いことでもしてたんじゃないの!」

 それに、桐生雪菜の罪悪感に濡れた泣き声。

「……私が悪いの。お母さんが、だめだったから……この子がこんな性格になったのは、きっと外で傷つけられて……だから、ハリネズミみたいに自分を包んで守るしか……」

 ――

 桐生椿は三階へ通される。家政婦が扉を開け、室内の造りが目に入った瞬間、胸の奥を何かに刺されたような感覚が走った。

 じん、と痺れる。

 部屋は三階の半分を占め、広さは二百平方メートル以上。

 なのに、ひと目でわかる。子どもの頃の間取りが、そのまま残されていた。

 左の子ども部屋にはベビーベッドとぬいぐるみ。右のウォークインクローゼットには、少女が幼い頃から成長するまでのサイズ違いのブランド靴やバッグ、宝飾品がぎっしりと収められている。

 家政婦が横で説明した。

「こちらは武治様と雪菜様が、長年、椿様のためにご用意されていたものです」

「これだけではございません。地下にも小さな倉庫がありまして、椿様のお品を保管しております」

「美月様にあるものは、椿様にも同じものを――いつお戻りになっても、すぐお使いになれるように、と……」

「積み重なって、こうして……」

 心臓が、どくんと跳ねた。

 桐生夫妻と名乗り合う気になったのは、九条蓮の追跡から逃れる目的も大きかった。かつての彼女は、自分は孤独で、どこで野垂れ死のうと誰も気にしない、涙を落とす者などいない――そう思っていた。

 けれど今は。

 同じ場所で、帰りを待ち続けてくれる両親がいる。それは――悪くない。

 家政婦が出ていくと、桐生椿は素早く窓と扉を確認し、ポケットから掌サイズの電子機器と細かな部品を取り出して組み上げ始めた。

 紅瑪瑙を手にしてから、桐生夫妻と行動を共にしていたせいで外部と連絡する隙がなかった。

 いま頃、組織の連中は痺れを切らしているはずだ。

 十秒もかからず、小型通信機が完成する。

「カタカタ……」

 白く細い指がキーボードを疾走し、画面はすぐさま秘匿ネットワークへ接続された。

 秘密チャンネルのチャットを開き、部下のタコへ送る。

【001:タコ。上に伝えて。紅瑪瑙は確保した。ただしこちらで想定外が起きた。約束の時間に、約束の場所へ行けない。

今、私はJ国にいる。桐生家が“見つけ出した”椿様として迎え入れられた。理由は今は言えない。組織は回収要員を再手配して。

それと、情報班に申請。私の現身分に関する行動記録を一切抹消してほしい】

 送信から三秒。

 即座に返信が返ってきた。

【008:ボス最強! 了解了解!】

 桐生椿は口元に弧を描き、通信を切ろうとする。

 ――だが。

 次に届いたタコのメッセージが、彼女の眉を跳ね上げた。

【008:ただボス、現身分の抹消はもう間に合わない。さっきダークウェブで掴んだ。九条蓮が手がかりを辿ってJ国まで来てる。もう入国済み。ボスを追ってる!】

 ……っ。

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