第4章
来るのが――想像よりずっと早い。
桐生椿は静かに思案した。
どうやら、九条蓮とは避けて通れない。
けれど、あの男は夢にも思わないだろう。J国の戦神を名乗り、血眼になって追っている相手が――実は自分と同じく、J国のために働く人間だなんて。
ただし、彼は表。彼女は裏。
彼女は「フォックス」――世界一の怪盗であると同時に、国家情報局が5S級秘匿指定に据えた、国家保安局・第一特務官。コードナンバーは001。
この世で彼女の素顔を見たことがあるのは、数人の配下だけ。上の連中ですら、会ったことがない。
国家保安局における彼女の存在は、最高機密。全国レベルで情報封鎖――それほどの扱いだ。
九条蓮が知らないのも、当然といえば当然。
桐生椿は狐のように舌先を覗かせ、紅い唇をひと舐めした。
なら、いい。
彼には存分に付き合ってもらおう。盤上の勝負を、最後まで。
あの冷酷な男が、彼女の正体を知ったとき――いったいどんな顔をするのか。想像するだけで愉快だった。
「ピッ」
【008――ボス、念のため言っておきます。九条家はJ国でも最古にして最も謎の多い一族です。桐生家とは格が違う。ですが都合のいいことに、九条家はかつて桐生宗一郎に“借り”があるらしい。だから今回、九条蓮と鉢合わせする可能性が高い……】
――
夜。夕食の時間。
午後ずっと部屋に籠もっていた桐生椿は、桐生夫妻に呼ばれて階下へ降りた。
桐生家は、筋の通った大世家だ。外出していない限り、食事の時間には必ず大きなダイニングテーブルに揃って座る。
それが、桐生宗一郎が定めた家の規律だった。
食卓で、母が箸を動かす。
「はい、椿。あなた、子どもの頃これが大好きだったでしょう。長いこと離れてたけど、味の好みは変わってないかしら」
「今日ね、お母さんが作ったの。どう? 口に合う?」
桐生雪菜は椿の茶碗に料理を取り分け、期待に満ちた目で見つめた。
「お前の母さん、午後ずっと台所だったんだぞ」
桐生武治も朗らかに笑う。
「他にも食べたいものがあったら言いなさい。父さんがすぐ厨房に頼む」
「ドン!」
その言葉を遮るように、老爺が箸を乱暴に卓へ置いた。
――まだ怒っている。
それは誰の目にも明らかだった。だが、なぜか今回は椿に噛みついてこない。
桐生椿はぱちりと瞬きをする。
両親が、何かうまく取りなしてくれたのだろう。
案の定、桐生武治が軽く咳払いをして切り出した。
「……椿。こういうことだ。父さんと母さん、それからおじいさまと話し合ってな。三日後に、親族披露宴を開くことにした」
桐生雪菜も椿の手を取り、優しく握る。
「椿、あなたは桐生家の令嬢よ。当日は帝都の社交界から、名門の方々がたくさんいらっしゃるわ」
「いい機会だから、少しでも場に慣れて、いろんな方と知り合いなさい」
「記者の前でも、皆さまの前でも、きちんと紹介するの。桐生家の次女が戻ったって、ちゃんと世間に知らせたいのよ」
「うん」
椿は気乗りしない宴会だと思ったが、両親が望むなら合わせるつもりだった。
「何も知らん、何もできん。披露宴など開いて、当日うちの恥を晒す気か」
老爺が不満げに吐き捨てる。
桐生雪菜はすぐに言い返した。
「お義父さま、それはご心配なく。椿にはきちんとお稽古をつけます。明日から名門クラブで研修を受けさせると決めました」
「桐生家の名に泥を塗らせません。お義父さまにも、絶対に恥はかかせません」
名門クラブ養成所。
帝都社交界で最も権威のある教育機関だ。数え切れないほどの名媛と御曹司を育て上げてきた。礼儀作法や芸術だけでなく、格闘やボクシング、医療知識、銃器射撃まで――外では滅多に学べない内容が揃っている。
きちんと身につけて卒業すれば、万が一、破壊分子に攫われたとしても自力で脱出できる――そんな冗談めいた評判すらある。
桐生美月も、そこで成績優秀者として名を知られた一人だった。
「ふん……そうだといいがな」
老爺は鼻を鳴らし、信じていない顔。
桐生美月もぷいと顔を背け、不機嫌さを隠さない。
両親は困ったように視線を交わし、桐生雪菜が椿へ丁寧に言い添えた。
「椿ね、怖がらなくていいのよ。先生方は親切だし、雰囲気もいいわ。格闘も射撃も未経験でも、基礎からちゃんと教えてくれるの。だから心配しないで……」
――
その後の食事は、波風なく終わった。
食後、桐生椿は二階へ上がり、自室に戻ろうとする。
ロンドンのサザビーズから戻ってこの方、九条蓮に追いつかれる可能性を考え続け、まともに目を閉じていなかった。
今夜こそ、少し眠る。
そう思ってドアノブに手をかけた、その瞬間――背後の気配が近づく。
桐生椿の目が細くなる。
殺気が、すっと立ち上がった。
……が。
次の瞬間、現れたのは桐生美月だった。
椿が部屋に入る寸前、彼女は駆け寄ってドア枠に手をつき、入室を阻む。
「見たのよ!」
美月は憎しみを滲ませた目で椿を睨みつける。
「全部、見た!」
「言い逃れなんてさせない」
「海外のゴシップサイトで見たわ。あんた、太った成金の腕に縋ってホテルに入っていった。あの男、遊びが派手で有名なのよ。コメント欄でも皆言ってた。あんたはあいつの玩具、誰にでも股を開く女だって!」
「……あんた」
「金のために体を売って、何でもする。そんな人間、性病でも持ってるんじゃない? 気持ち悪い」
「私は、あんたみたいな妹、絶対に認めない。何か言い分はあるの?」
詰め寄る声を受け、椿はゆっくりと殺気を引っ込めた。
……太った成金? ゴシップ?
椿の脳裏に、去年の任務がよぎる。
緊急案件で、偽装の準備が間に合わなかった。仕方なく素顔のまま標的の富豪をホテルへ誘い込み――そこで始末した。
まさか、盗撮されていた?
しかも、それを美月が見た?
だから――この、会ったこともなかった姉は、最初から自分を嫌っていたのか。
桐生椿は眉を上げる。
「……どうなの。黙るってことは、認めたの?」
美月は唇を噛み、さらに一歩詰める。
椿は説明する気になれなかった。
彼女の身分は特殊だ。軽々しく口にすれば、取り返しがつかない。両親を危険に巻き込むことにもなる。
だから、椿は腕を組み、気だるげに答えた。
「うん。知ってるよ、あなたが見たってことは。で、それが何?」
「……何、ですって?」
美月の顔が、怒りで歪む。
こんな厚顔無恥な人間、見たことがない。愛人だの玩具だのと罵られても、平然としている?
美月は煮えたぎる感情のまま、毒のような誓いを吐いた。
「桐生椿……覚えてなさい」
「あなたがやったことなら、私は地面を三尺掘ってでも証拠を見つける。外で何をしてきたのか、全部掘り起こしてやる」
「過去も、経歴も、正体も――お父さま、お母さま、おじいさま、それに帝都の連中全員に見せつけてやる。桐生椿が、どんな人間なのかって!」
