第5章
「へえ?」
桐生美月の言葉を聞いた桐生椿は、ぱちぱちと瞬きをしてから、気だるそうに大きなあくびをひとつ。肩の力が抜けきった声で言った。
「いいよ。待ってる。でも今は眠いの。好きにすれば?」
そう言い終えるより早く、美月がキレる暇も与えず、椿はするりと身を翻して部屋へ滑り込む。
バタン――いや、もっと乱暴に。
「ガチャン!」
扉が閉まり、さらに――カチャリ。律儀に鍵までかける。
その瞬間も、椿の耳には廊下の向こうから美月の罵声が届いていた。
部屋の中で椿は腕を組み、くすりと笑う。
(お姉さま、ほんとお嬢さま気質が抜けないな)
わざわざ本人のところまで来て「調べる」なんて宣言するあたり、いかにもだ。
それに――。
私の身元情報が、そう簡単に掘れるわけがない。
国際最高レベルの機密。冗談じゃない。あの九条蓮ですら、私の痕跡を一本拾うのに苦労した。まして美月にできるはずが――。
外で、ドアが開かないと悟った美月が苛立ちまぎれに一発、思いきり蹴りを入れる音がした。
ドンッ。
続いて、ヒールの足音が遠ざかっていく。
椿は鼻で笑い、ようやくベッドへ向かった。
――
翌朝。
桐生椿は眠たげにあくびを噛み殺しながら階段を下りた。髪もろくに整えていない、だらりとした格好。それなのに不思議とみすぼらしくはなく、年相応の無邪気さと小悪魔っぽい愛嬌が残っている。
それが桐生雪菜にはたまらなかった。
――女の子は、こういうのでいいのよ。
美月は毎日きっちりメイクして出ていくせいで、母親の自分ですら素顔を忘れそうになる。何度か言えば「ママ、ダサい」と一蹴される始末だ。
「椿、こっちこっち! ママが朝ごはん作ったのよ。椿の分だけ。パパもお姉ちゃんもなし!」
雪菜が手を振る。
桐生家には朝食担当の料理人がいて、頼めば何でも出てくる。それでも雪菜は、外で長いこと流れた娘に、せめて自分の手で温かいものを食べさせたかった。
「うん!」
椿は素直に頷き、普通の少女みたいに小走りでテーブルへ向かう。
並んでいるのは、豪奢とは言えない簡単な朝食。帰国前、世界のどこででも味わってきた一流の料理とは比べものにならない――はずなのに。
やけに食欲をそそる。
(これが……母さんの味、ってやつ?)
「ゆっくり、ゆっくり食べて。まだあるからね」
椿が夢中で口に運ぶのを見て、雪菜の胸に酸っぱいものが込み上げた。
この子、外でどれだけ苦労してきたのだろう。
椿がすっかり満腹になったころ、雪菜はようやく本題を切り出す。
「椿ね。お姉ちゃんは勤勉だから、朝早く名門クラブ養成所に行っちゃったの。パパも急用で、おじいさまを連れて会社へ……だから今朝は待てなくてね」
言い訳めいた口調になっているのを、椿は聞き逃さない。
(気にしないで、ってことか)
「あとで運転手に送らせるわ。名門クラブまで」
椿は眉を上げた。
名門クラブ養成所――昨夜、部屋に戻ってからついでに調べた。帝都の名家の子弟が通う、いわば必修の養成スクール。そこに所属して初めて、上流社会に「認められた」と見なされ、帝都での立場と肩書きが手に入る。
だから金と権力のある家ほど、必死で子どもをねじ込む。
学ぶものがなくても、人脈が手に入るなら儲けもの――要するに、資源の交換所みたいな場所。
しかも、養成所自体に実力があるらしい。卒業生は礼儀作法から社交、教養まで、目に見えて仕上がるという。
桐生美月はそこで「万能の天才」とまで持ち上げられた――とも。
椿は面白そうに目を細めた。
(ちょっと楽しみかも)
「椿、運転手が外で待ってるわ。お腹いっぱいなら、行きましょ」
雪菜が椿の手を取り、慈しむように握る。
玄関へ出ると、運転手と高級車がすでに控えていた。
雪菜が補足する。
「お姉ちゃんは自分で運転して行ったの。椿はまだ免許がないと思ってたから、送迎を手配したのよ。免許を取ったらね、ママが好きなスポーツカー買ってあげる。スクールに乗っていけるように」
「ね?」
椿はあっさり言った。
「別に、免許ならあるよ」
「えっ?」
雪菜が固まる。横で控えていた使用人と運転手も、思わず目を丸くした。
――海外で清掃の仕事をしていた、と聞いていたのに。どうして免許が?
椿はさらりと、もっともらしい理由を付け足す。
「稼ぐため。代行運転って、結構いいお金になるから。いろんな国の免許、取ったんだ」
もちろん、即席の作り話だ。
家族に過去の正体を明かすつもりはない。けれど、何もできない無能を演じれば、行動に制限が増える。やるべきことも、まだ山ほどある。
だがその言い訳は、雪菜に別の刺さり方をした。
雪菜の目が、みるみる赤くなる。
「……椿。苦労したのね、うちの子」
雪菜は震える声で続けた。
「ガレージにスポーツカー、まだいくつもあるの。椿、どれか選んで乗る? とりあえずそれで通って。お休みの日に、改めて好きなの買いに行きましょ。ママが連れていくから」
椿は横目で雪菜を見る。
飾り気のない涙。手を離さない指先。二度と失くしたくないとでも言うような力。
――愛される、という感覚はまだ馴染まない。
それでも。
(悪くない)
「じゃあ……母さんが選んで」
「もちろん!」
「母さん」と呼ばれた瞬間、雪菜はぱっと表情を明るくし、椿の手を引いてガレージへ向かった。
やがて、管理人が一台の真紅の車を引き出してくる。
椿の前に現れたそれを見て、彼女の挑剔な顔に、わずかな綻びが走った。
(おっ)
「ランボルギーニ・レヴェントン。ミッドシップの4WD、6速のシーケンシャル。可変ジオメトリーのインテークに、可変バルブタイミングの吸排気カム……見た目もいいし、ボディもいい」
椿は根っからの車好きだ。口をついて出た賛辞は、淀みがない。
このクラスは、世界の金持ち二世が見栄を張るときの定番でもある。
桐生家に、こんな玉が眠っていたとは。
――その瞬間。
雪菜も、使用人たちも、ガレージの管理人も、視線の色が変わった。
椿は、たった一目で「フルオプション級」の仕様を言い当てた。
それは専門のエンジニアか、相当なマニアしか知らない領域だ。
(清掃の仕事をしてたんじゃ……?)
まるで、乗り慣れているみたいに。
