第6章
よく考えてみれば、桐生椿はこれまでいくつもの国で運転免許を取ってきたのだ。きっと大勢の富豪や御曹司の代行運転も請け負い、スーパーカーやスポーツカーに触れる機会だって少なくなかったのだろう。
自分の車ではないにせよ、事前に癖を把握しておかなければ、万が一にも壊したら――売られたところで弁償しきれない。
そう思えば、ここにいる誰もが「まあ、そういうこともあるか」と納得してしまう。
「椿、この車……気に入った?」
桐生雪菜が不安げに覗き込む。
「うん。昔、すごく欲しかったモデル」
その答えで、周囲の疑念はきれいに消えた。
――なるほど。知ってはいても、手にしたことはない。そういうことなのだ。
――
スーパーカーを手に入れた桐生椿は、そのままランボルギーニ・レヴェントンを路上へ滑り出させた。アクセルを踏み抜き、終始ベタ踏み。風を切るように、自由奔放に。
もし助手席に誰かが乗っていたなら、すぐに気づいただろう。これは、ただの代行運転が持てる腕ではない、と。
「キィ――ッ」
帝都南門交差点の角で、稲妻みたいなドリフト。車体が流れ、次の瞬間には何事もなかったかのように姿勢を正し、ナビが示す名門クラブ養成所の正門前へぴたりと収まった。
桐生椿が降りると、連絡を受けていた教師らが数人、すぐに駆け寄ってくる。
「桐生さん、ご入学おめでとうございます! 名門クラブへようこそ!」
続いて、クラッカーが鳴った。
「パン、パン!」
色とりどりの紙吹雪が、桐生椿の肩から髪へと降りかかる。
彼女は反射的に眉をひそめた。
派手すぎる。こういうのは、慣れない。
だが門前の騒ぎは、あっという間にクラブ内の名門子弟たちの耳へ届いた。ここ数日、帝都最大の話題といえば――桐生家の次女が戻ってきた、というニュースなのだから。
「ねえ、見て。あれが桐生家が見つけた次女?」
「桐生椿って名乗るの、他にいないでしょ」
「海外で何年も清掃員してたっていう、あの次女? どんな顔してるのか見たい」
「やめときなよ。服もダサいし、まともなブランド物ひとつないじゃん。それに、あの手でトイレ掃除してたって思ったら、今日の昼ご飯無理」
「……」
ざわめく人だかりの中から、二人が前へ出てくる。姉の桐生美月と、その取り巻き――美紀だった。
「清掃員が、うちみたいな格闘やボクシング、医薬、射撃まで何でも学べる場所に入って、何日もつと思う?」
美月の目の前だというのに、遠慮のない嘲りが飛ぶ。
別の生徒が鼻で笑った。
「三日が限界じゃない? 清掃員とか以前に、名門クラブの強度知らないの? 格闘も射撃も、ほぼ軍の基準だよ」
「それで? 基礎すら知らないでしょ、絶対」
周囲が堪えきれずに噴き出す。明らかに、桐生椿の醜態を待っている笑いだ。
前方で、美紀が肘で美月をつつき、笑いを噛み殺しながら言った。
「ねえねえ、美月。みんな、あんたの妹の話してるよ? 助けてあげなくていいの?」
美月は冷えた声で吐き捨てる。
「私に、あんな汚いことする出来損ないの妹はいない」
「そんなに嫌いなんだ」
美紀が探るように言い、すぐに続けた。
「じゃあさ、私が機会見てしつけてあげる。あとで可哀想とか言わないでよ?」
「好きにしな」
美月は鼻を鳴らし、踵を返して去っていった。
――
桐生椿が正式にクラスへ入ると、教師は簡単な自己紹介だけをさせ、すぐ授業に入った。
名門の子弟にとって時間は金だ。教師側も、彼らの時間を無駄にするような真似はできない。
桐生椿は初日ということもあり、最初の「琴棋書画と礼儀作法」の授業だけは専任教師による個別指導となった。
それも桐生夫妻の意向らしい。椿が何もできず、同級生の嘲笑の的になるのを避けたかったのだろう。
桐生椿としては、どうでもよかった。
任務を終えたばかりで手持ち無沙汰だ。ちょうどいい、別の趣味を体験してみるだけ。
――たとえ、特工にとっては幼稚園のままごとみたいな内容だとしても。
それでも、彼女は楽しんでいた。
個別授業を終え、専用教室から出た瞬間。
正面から来た美紀が、扉口を塞ぐように立ちはだかった。
腕を組み、上等な人間が下等な人間を見下ろすような態度で、わざとらしく声を張る。
「あなたが美月の、海外から連れ戻された清掃員の妹――桐生椿、でしょ? 自己紹介しとく。私は美月の親友、美紀」
「あなたは美月の妹なんだから、私の妹でもあるわけ」
妹、と口では言う。だがその高慢な令嬢のどこにも、妹扱いする気配はない。
案の定、美紀はすぐ本題を露わにした。
「姉妹なんだから、姉としてあなたが人前で恥かくのを見て見ぬふりはできないのよね」
「ちょうど次は格闘ボクシングの授業でしょ。女の子は極めなくてもいいけど、名門の令嬢なら自衛は基本」
「それで?」
桐生椿は、これ以上の前置きに付き合う気がない。
「だから、事前に私がちょっと教えてあげようと思って。あ、別に感謝しなくていいよ。投げられて痛くても泣かないでね?」
美紀がからかいに来たのは、誰の目にも明らかだった。
二人のやり取りを聞いた生徒たちは、こらえきれずにくすくすと笑い出す。
それなのに桐生椿は、ぱちりと瞬きをした。
「じゃあ、ありがとうって言えばいい?」
「……ぷっ」
「ぷぷぷ……」
本気で信じたのか?
美紀はこのスクールで「イタズラ大将」と呼ばれている。清掃員上がりの子に、本気で教えるわけがない。
「ぷっ……」
結局、美紀本人まで吹き出した。桐生椿が本当に信じているように見えるのが可笑しくて、笑い声が甲高くなる。
「はは、ははは……あんた、まさか本気で信じたの?」
笑い終えると、今度はねっとりとした悪意を乗せた。
「ねえ。家に戻る前って清掃員だったんでしょ? 清掃員って何するの? まさか汲み取りまでやるの?」
「体に菌とか、便所の臭いとか、染みついてるんじゃない?」
周囲がどっと笑う。中には鼻をつまみ、わざと距離を取る者までいた。
美紀は手をひらひらさせる。
「ま、いいや。美月の妹ってことで、これ以上は弄らないであげる。代わりにさ、私の質問に真面目に答えたら、格闘ボクシングの“本物”を少し教えてあげる」
「次の授業で恥かかないようにね?」
まだ弄るつもりだ。
生徒たちは面白がり、視線が集まる。
その視線の中で、桐生椿は横目に薄く笑った。
ただし今度は、さっきみたいにわざと輪に入って流す気はない。淡々と眉を上げるだけ。
そして、冷えた笑みのまま言い放った。
「誰かに言われたことない?」
「道化みたいに得意げに人を弄ぶその顔、あまりに醜くて。もう、付き合って演じる気が失せた」
「でも、ありがとう。私の実の姉が、私の帰国をどれだけ嫌がってるか――よく分かった」
「それと」
「あなた程度の格闘ボクシングで、私に教えるつもり? 資格がないわ」
「――っ」
空気が凍った。
周囲の生徒たちは目を丸くする。
彼女、全部分かっていたのか。
道化になったのは、美紀のほうだ。
美紀は怒りで言葉が詰まった。
「な、ななな……! あんた、私が弄ってるって分かってたのに、わざと乗ったわけ? 死にたいの?」
「それに、私に資格がないって?」
「……いいよ。いいよ。名門クラブの格闘クラスが、どれだけ“本気”か教えてあげる!」
「クズ! 今すぐ見せてやる! 泣いて謝って、跪いて許し乞いなさい! はっ、いくよ!」
そう言うなり、美紀が手を出した。
動きは素早く、拳が風を切る。振りかぶった拳が桐生椿へ一直線に迫る。その気迫と型は、確かに素人の見せかけではない。
周りの生徒たちも息を呑んだ。
美紀は本気で怒っている。
だが、そもそも桐生椿が悪い。誰に喧嘩を売るにしても、よりによって美紀を選んだ――そう思う者も多い。
美紀の実力はクラブで最上位ではないにせよ、鍛えた人間だ。
金持ちの家ほど、誘拐を恐れる。だから子どもに自衛の力を持たせるため、こうした機関で戦闘能力を叩き込む。
名門クラブが最も重視しているのも、その格闘技術だ。
この一撃は、クラブ最強の拳ではなくても――外で長年流れてきた、何も知らない普通の女の子が受け止められるものではない。
どれだけ酷い目に遭うのか。
皆が固唾を呑み、美紀の拳が桐生椿に届く、その瞬間――
「シュッ!」
桐生椿の眼差しが、すっと鋭くなる。
その瞳に宿ったのは、世界の頂に立つ者だけが放つ――冷ややかな蔑視。
そして――
次の刹那。
