第7章
美紀の拳が桐生椿に届く――その、ほんの一瞬手前。
椿はふいに足を上げた。
「ドン――」
軌道のまま突き出された蹴りが、美紀の下腹へ吸い込まれる。拳より速い脚技に、美紀は何が起きたのか理解する暇すらなく、腹の奥をえぐられるような激痛だけを受け取った。
次の瞬間には膝から崩れ落ち、両手で腹を押さえたまま、言葉も出ない。
あまりに突然の急変に、その場の空気が凍りつく。
周囲はほぼ同時に息を呑んだ。
――うそ、だろ……
桐生椿はただの一般人じゃなかったのか。鍛えている美紀を、蹴り一発で跪かせた?
「……ありえない!」
地面に膝をついた美紀も、顔を歪めながら信じられないと首を振る。門外漢に叩きのめされるなんて、屈辱以外の何ものでもない。
田舎者が、自分に勝つ?
どこかで何かが間違っている。そうに決まってる。
大半が目を見開いたまま固まり、残りは恐怖で反応を失っている。そんな中で、ただ一人。
桐生椿だけが、平然としていた。
「愚かね」
椿は美紀へ向け、薄く笑う。
その笑みは冷たく、どこか人を弄ぶような、狐めいた気配を滲ませていた。
――私に手を出すなんて。
J国の戦神・九条蓮ですら、相手によっては分が悪い。椿は世界格闘とボクシングの王座を何度も獲ってきた人間だ。
表のリングも、裏の仕事も。
潜入、強襲、暗殺、追跡、爆破――できないことのほうが少ない。
美紀程度の格闘技術で、目の前で見せびらかすつもりだったのか。
両親に見つけ出されて「家」に戻ることがなければ、こんな蟻みたいな存在、視界に入れることすらなかっただろう。
「……あんた、覚えてなさいよ!」
美紀は意地で立ち上がろうとするが、腹の痛みが容赦なく襲い、腰が浮いただけで顔色が真っ青になる。結局、悔しさを噛み殺しながら、椿に向かって吐き捨てた。
「私に勝ったくらいで、何よ」
「私は格闘クラスでも一番普通の生徒。ここには本物の天才がいるの。あんたなんか、比べものにならない」
「そいつらに当たったら終わりよ!」
惨めに叩き潰される。そう言いたげな目。
だが椿は、さらに美紀の神経を逆撫でする一言を返した。
「へえ。私が、どうしてその人たちに会う必要があるの?」
そう言い捨てると、椿は一秒たりともこの愚か者と同じ空気を吸いたくないとばかりに踵を返した。
それが美紀の怒りに油を注ぐ。
「だ、だって……その態度がムカつくのよ! それに、うちの学校で清掃員なんて歓迎されるわけないでしょ!」
「どうせ力が強いだけ! その腕力も、苦労して肉体労働してきたからでしょ!」
「勘違いしないで! ここじゃ、その程度の蛮力なんて何の価値もない。いつか必ず誰かがあんたを叩き直す!」
「本物の格闘ってものを思い知りなさいよ!」
美紀の叫びに、周囲も一斉に乗っかる。
「そうだそうだ! 藤崎先輩みたいな凄腕に当たったら、一撃も持たないって!」
「清掃員は清掃員だろ。桐生家に戻ったって、所詮は田舎者」
「私が家族なら外に出さないね。恥さらしになるだけだし」
罵声が重なり、空気がざわつく。
味方が増えたと感じたのか、美紀の目に再び火が灯った。
「聞いた? 桐生椿。あんたは下品で卑しいのよ。お嬢様の器じゃない。今さら戻っても、その粗野さは消えない!」
「格闘もボクシングも、そんな甘いものじゃない。さっきのは運が良かっただけ! このあと授業で恥かくのはあんたよ!」
「そうそう!」
「現実が教えてくれるって!」
椿は、周囲の嘲りを風の音のように聞き流した。
国家保安局のコードネーム「001」が、道化の子どもたちと口喧嘩するほど暇じゃない。
もし外に漏れたらどうなる。国家情報局の特務部を束ねる立場の人間が、愚かな学生と罵り合い――そんな話、あの老獪な連中が腹を抱えて笑うに決まっている。
それなら、どこかで少し休んだほうがよほど有意義だ。
「タタタタ……タタタタ……」
そのときだった。
どこからか、澄んだピアノの旋律が流れてきた。
前半は激しく、胸を打つ。けれど低音には艶があり、魂の奥へすっと入り込んでくるような美しさがある。
音が鳴った瞬間、さっきまで喚いていた連中まで、嘘みたいに静まり返った。
誰もが知る名曲ではない。むしろ即興に近い。だが、ひとたび弾かれれば息を忘れるほどの引力があった。
そして、そのタッチと表現力で、すぐに誰の演奏か察しがつく。
「桐生美月だ……!」
「間違いない。あの音は美月しか出せない!」
ただ、このタイミングで弾くとなれば、比べろと言っているようなものだ。
矛先は当然、椿へ向く。
「同じ桐生家の令嬢なのに、差がひどすぎない? 雲泥の差ってこういうの」
「双子でも格が違うんだよ」
「名門のお嬢様の品って、生まれつきだよね。真似しようとしても無理」
「おい桐生椿。清掃員のお前、ピアノなんて聴いたことあるの? 田舎育ちで、ピアノ自体見たことないんじゃない?」
椿は眉をわずかに上げた。
反論する気がないわけじゃない。
ただ――この曲が、妙に、いや、異様に馴染む。
椿の反応を、周囲は「何も分かっていない」沈黙だと勝手に解釈した。
「ほら、黙っちゃった」
「かわいそー」
「力だけで、他は何もないんだよ」
曲が終わり、ピアノ教室の扉が開く。
現れたのは桐生美月だった。
「桐生椿。ここでは、自分の立場をわきまえたほうがいいわ。……そう思わない?」
わざわざ椿が触れたこともないはずの曲を弾き、見せつけてから出てくる。意図は明白だった。
――あなたと私の間には、これだけの差がある。
そう突きつけるための、演出。
つまり、美月は椿を心底歓迎していない。
椿は肩をすくめる。
「そう? 私はそうは思わないけど」
「……っ」
美月は唇を噛んだ。
名門クラブで“女神”と崇められる存在が、美月だ。そんな彼女に椿が口答えしただけで、周囲が黙っていられるはずもない。
「桐生椿、何様のつもり? 美月様にそんな口を利くなんて!」
「美月様はここで一番才能のあるピアノの天才よ!」
「美月様が崇拝してる世界的な覆面ピアニスト――メリッサ嬢と並べるのだって、美月様くらいなんだから!」
「それを、お前が……!」
騒ぎ立てる声を聞き流しながら、椿のこめかみが、ぴくりと跳ねた。
――メリッサ。
その名が出た瞬間、確信に変わる。
美月がさっき弾いたあの曲。やはり、あれは。
世界的な覆面ピアニスト「メリッサ」――それは、椿自身だ。
かつて暗殺任務で使った、その場しのぎの偽名。任務の途中、必要に迫られて即興で作って弾いた曲。
まさか、あの“ついで”が。
美月にとっては「崇拝する世界級の天才」になっていたなんて。
