第8章

桐生椿が黙っているのを見て、周囲は――世界的に名高い覆面ピアニスト“メリッサ”の名すら知らないのだと、勝手に決めつけた。

だからこそ、口々に煽りが加速していく。

「桐生椿、あんた……世界最高峰の覆面ピアニスト“メリッサ”も知らないんでしょ? そのぽかんとした顔、丸わかり。教えてあげる!」

「メリッサは、この世でいちばん謎めいたピアニストよ。正体は誰も知らない。現れるたびに必ずヴェールをつけてて、即興で弾くのと作曲が大好きなの」

「クリサ晩餐会の、いちばん神秘的な客。名だたるピアニストたちが『天才』って口をそろえるのよ。ほら、あんた……呆然としてる。もう言葉も出ない?」

「……」

桐生椿「……」

彼女はただ言葉を返さなかっただけだ。

まさか――かつて任務のために一度弾いただけの曲が、他人の口から「神話」みたいに語られているとは、思いもしなかった。

椿は額に手をやり、軽く息をつく。

「うん。でも、ただの一曲でしょ」

淡々とした声。喜びも悲しみも、そこにはない。

当然、周囲がその返答を受け入れられるはずもない。

とりわけ、桐生美月は。

美月は腕を組み、「どうせ知らないに決まってる」という目で、皆が自分の“推し”――メリッサ嬢の凄さを語り終えるのを待っていた。

そして椿が驚いた顔をした瞬間、横から叩き落とす。そうすれば、身の程を知って引き下がる――その算段だった。

金持ちの愛人で食いつないできた女が、桐生家の令嬢を名乗るなんて。

自分と同列に立てるわけがない。

なのに椿は、平然と「ただの一曲」と言い切った。

美月は親指が白くなるほど握り込み、歯ぎしりする。

「……ただの一曲? あんた、ほんっとに無知ね! 言うのは簡単よ、何もわかってないだけ! じゃあ――あんたが弾きなさいよ! 一曲、弾いてみなさい!」

強がりもいいところだ。

美月は怒りで頭が沸騰しそうだった。

このあとどう取り繕うつもり?

そう思った矢先――椿の返事が、美月の身体をその場で凍りつかせた。

「いいよ。弾けばいいんでしょ」

桐生椿が、桐生美月へ向けて――挑発するような笑みを引き上げる。

そして。

大股で、ピアノ教室へ向かった。

その身のこなしは軽く、しなやかで――炎をまとった妖狐みたいだった。

背筋の通った後ろ姿。揺るがない足取り。自信に満ちた佇まい。

ほんの一瞬、美月の脳裏に重なった。

クリサ晩餐会の録画映像。裾をつまみ、ヴェールをかけ、舞台へ歩み出る覆面の女。

――ありえない。

美月は慌てて首を振る。

桐生椿とメリッサを結びつけるなんて、発想が飛躍しすぎている。

そうこうしているうちに、椿は皆の視線を浴びながらピアノの前に立った。

「ぷっ」

「さあ、何を弾くんだか」

「片手で弾ける『きらきら星』とかじゃない? 幼稚園レベル。動画見りゃすぐ覚えられるし」

「ははは……」

誰もが、椿がふざけているだけだと思っていた。

椿は椅子に腰を下ろし、片足をペダルへ置く。

身体をわずかに傾け、呼吸を整え――

次の瞬間。

ざわめきと嘲笑の中で――美月がさっき弾いた曲よりも、さらに柔らかく、さらに美しい旋律が、椿の十指からこぼれ落ちた。

その場が、すっと静まり返る。

そして――

甘く、夢に沈むようだった音色が、左右の手が三オクターブを跨いだ跳躍と反転を境に、鋭く変貌した。

剛く、激しく、奔流のように。

高鳴り、押し寄せ、胸の奥を揺さぶる。

ひとつの瞬間に、幾つもの感情が重なって――音が、まるで刃みたいに、聴く者の心臓へ突き刺さる。

顔色が変わる。

息を呑む。

誰も、声を出せない。

高く落ちる滝のように。

千の軍勢が駆け抜けるように。

神の峰をよじ登るように。

頂に立ち、王となるように。

そして最後は、また柔らかな小川のような音へ戻り――静かに、終わった。

椿はふわりと両手を持ち上げ、鍵盤から離す。

しばらく、誰も動けなかった。

――この曲。

世界で最も有名な覆面ピアニスト、“メリッサ”嬢の代表作。

あの「話題をさらった即興曲」そのものだ。

しかも、ただ弾けた……なんて次元じゃない。

高音も低音も、移ろいも間も、すべてが生きている。指先から溢れる情緒の濃さは、美月の演奏とは比べものにならず――メリッサ嬢の演奏に、限りなく近い。

いや、近いどころか。

「……メリッサ嬢の即興より、完成してる。もっと……完璧。まるで本人が、その場で曲を磨き直したみたい……」

ピアノに詳しい女子が、震える声で呟いた。

全員が、口を開けたまま固まる。

とりわけ――メリッサ嬢の熱狂的なファンである桐生美月は、誰よりも“癖”を知っている。

椿が弾いていた最中、右手の小指がわずかに傾いて打つ、あの点音。

その癖が――クリサ晩餐会でメリッサが弾いたときの癖と、驚くほど同じだった。

偶然?

そんなわけがあるのか。

「……あんた! どうしてこの曲が弾けるのよ!」

美月は、ほとんど叫んでいた。

そして次の瞬間――

桐生椿が、ふっと眉を上げる。

皆の前で、美月の魂ごと震え上がらせる説明を、淡々と口にしようとした……。

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