第1章

 結婚一周年の記念日に、夫の翔太は私にアンティークの指輪を贈ってくれた。

 それをはめたせいで、私はすべてを失った。

 流産し、体は麻痺し、みるみるうちに干からびた抜け殻になっていった。そして翔太は? あの出来事は、子を失った母親が悲しみのあまり正気を失っただけだと、周囲の誰もが信じるよう巧みに仕向けた。

 やがて、私自身でさえ彼の言葉を信じるようになった。

 真実が腑に落ちたのは――私が殺される、その瞬間だった。

 あの指輪は祝福なんかじゃない。寄生して命を吸い上げる、吸血の器だったのだ。

 そして、私は目を開け――

 結婚記念日のディナーの席に戻っていた。

――

 びくん、と体が跳ねた。肺が引き裂かれるように、荒い息を吸い込む。

 手が反射的に首元へ飛んだ。血はない。指先に触れたのは、滑らかな絹の感触だった。

 テーブルの下で、つま先に力を込めてハイヒールを押した。しなる。麻痺していない。骨みたいに硬直もしていない。

「結婚記念日おめでとう、ダーリン」

 その声に、視線がはじかれるように落ちた。翔太が私の前にひざまずいている。掌には、開いたベルベットの小箱。

 中には、酸化して黒ずんだ金属の塊――あの指輪が、まったく同じ姿で鎮座していた。

 汗が背中に貼りつき、ドレスが肌にまとわりつく。見ただけで、腹の奥に幻の痙攣が走った。

 寄生虫。こいつはまた、私に死刑宣告を手渡そうとしている。

 指がシャンパングラスに食い込んだ。

「桜子?」翔太が促す。

 小箱を、私の手元へさらに数センチ押し出してくる。

 私は、手を伸ばさなかった。

 食卓が静まり返る。招待客たちが視線を交わした。

 カメラのライトが、目の奥でぱっと弾けた。

「ねえみんな、見て見て!」

 義妹の理沙が、役員の一人を押しのけて割り込んでくる。スマホは録画中。彼女が着ているのは、私が買ってやったシャネルのドレスだった。

「翔太が桜子に、家宝をサプライズでプレゼントしてるの!」レンズに向かって甲高くはしゃぐ。「うちのご令嬢って、世界一幸せな女の子じゃない?」

 客たちはたちまち乗せられた。

「うわあ、家宝だって! はめなよ、桜子!」農場部門の幹部の一人が囃し立てる。

「そうそう、ひざまずいて待たせるなよ!」後ろから友人の声が重なる。

 高まる圧に胸が締めつけられる。グラスを握る拳が白くなり、手の震えでシャンパンが揺れてこぼれそうになった。

 群衆の煽りを餌にして、翔太が自信たっぷりに私の左手へ伸ばす。「俺がやるよ、桜子」

 だめだ。黒い指輪から目が離せない。はめられるわけがない。

 彼の指先が私の手首をかすめた。

 私は思わず身を引いた。

 グラスが滑った。硬い床に叩きつけられ、粉々に砕け散る。

 その破裂音で歓声が途切れ、部屋は死んだような静けさに沈んだ。

 理沙が息をのむように、そっと口元を覆う。

「桜子、大丈夫?」彼女はカメラを床の水たまりに向け、すぐに私の顔へと持ち上げた。

「十カラットのダイヤじゃないからって、ただの錆びた古いアンティークだと思った? でも翔太がくれたのは、彼の家に残る最後の家宝なのよ。ゴミみたいに嫌がる必要、あった?」

 テーブルのあちこちで、ひそひそ声が立ち始める。

「翔太はあなたに尽くしてるのに、桜子」理沙はさらに続け、声を落として、やさしく完璧な失望の調子にした。「指輪が百万円もしないからって、わざわざ恥をかかせることないじゃない」

 前の人生の私は、ただの我儘なお嬢さんが騒ぎを起こしたいだけだと思っていた。けれど今、あの計算ずくの目つきを見れば、罠が透けて見える。

 二人は組んでいる。断れば、守銭奴のスノッブだとネットで叩かれる。受け取れば、呪いが私の命を吸い尽くす。

 結末を知っているからこそ、胸の奥で黒い、意地の悪い愉快さが火花を散らした。

 私は彼女のカメラに向けて微笑んだ。

「まさか」私は落ち着いて答えた。

「ただ、結婚してまだ一年で、一家の核心に触れる家宝を受け取るのは重すぎると思っただけよ」

 理沙の表情がこわばる。こちらが釣られないのが気に入らないのだ。

 だが翔太は、わざとらしく大きく息を吐き、被害者の仮面へと鮮やかに切り替えた。

「ハニー」彼は柔らかく呼びかけ、部屋中に『傷ついた心』が届くよう、声量だけを少し上げる。

「君がいつも体重のことで不安なのは知ってる。でも言っただろう――俺は君の中身を愛してるって。……それとも、本当に理沙の言うとおり? 俺の贈り物は、君には安すぎるのか?」

 いつもこうだ。私だけに打ち明けた弱みを、人前で武器にして突きつける。致命的な罠を、ただの愛の試験にすり替える。

 私は感謝しているふりの笑顔を貼りつけた。

「ううん。気に入ったわ」

 間を置かず、私は彼の手からベルベットの箱をひったくった。

 翔太の肩が、心底ほっとしたように落ちる。彼は理沙へ、ほんのわずかに勝ち誇った視線を投げた。自分がまた血の袋を確保したと、本気で思っている顔だった。

 その一瞬、私は飛びかかった。

 理沙の手首を、逃がさない力で掴む。彼女の脳が動きを理解するより早く、私は黒い指輪を引き抜き、彼女の薬指にねじ込んだ。関節を越えるまで、乱暴に押し込む。

「姉妹なんだから、何でも分け合うでしょう」私は静かに言った。

「きゃあああっ!」

 理沙が耳を裂くような悲鳴を上げた。

 彼女は必死に後ずさり、金属が毒でも滲み出して皮膚を焼いているみたいに、自分の手を狂ったように掻きむしる。磨き上げた社交界の余裕は、跡形もなく消し飛んでいた。

「なんで私にはめるのよ!?」彼女は、静まり返った部屋のど真ん中で過呼吸になりながら叫ぶ。

「外してよ、このクソ女! なんでこんな気味悪いのを私の手に!? 私を殺したいの!?」

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