第1章
王后陛下が重い病に伏されて以来、王廷は崩壊の瀬戸際で、いつ転げ落ちてもおかしくない綱渡りを続けていた。
あの危急の局面で玉座を支えたのは、この私だ。胸を裂かれるほど痛みながら、それでも歯を食いしばって立ち続けた。護城結界の綻びを繕うため魔力を削り、夜も昼もなく王后のため延命の秘薬を調合した。
だというのに、御竜軍団がついにアビスの魔物を駆逐したその直後、私を待っていたのは勝利ではなく――致命の刃だった。
魔力は一筋ずつ、丁寧にねじ切られていく。胸の奥で脈打つ、命と力の象徴――魂の源核が、見慣れた手によって生きたまま抉り出された。
息が尽きる寸前、私はようやく刃の主の顔を見た。
新婚の夫、ドリスタン。
その隣で、もう片方の腕に抱き締められていたのは――同じ父を持つ異母妹、ヴェスペラだった。
「やっぱり君は賢いな、僕の可愛いヴェスペラ」
ドリスタンは、淡い光を放つ源核を傲慢に値踏みしながら言った。
「偽造した恋文ひとつで、あのどうしようもなく愚かな女は、喜んで僕のためにあのボロ城を死守した。――そして今、源核まで僕の戦利品だ」
ヴェスペラは甘えるように彼の胸へ頬を寄せ、碧の瞳に欲と毒を溜めたまま囁く。
「その力を吸収して生まれ変わったら、二人で王都へ戻りましょう。あなたは相変わらず高貴な帝国の王太子。そして私は、名実ともに正統な王太子妃の冠を戴くの」
吐き気のする誓いの言葉の中で、私は最後の息を飲み込んだ。
そして――再び目を開けると、そこにあったのは冷たい灰色の石の穹天。
戻ってきたのだ。ドリスタンが戦死したという訃報が、王都に届いたその日に。
大広間の隅を一瞥しただけで分かった。あの男は冷えた鉄面を被り、姿を変えて――私の可愛い妹ヴェスペラの「近侍の宣誓騎士」に成り代わっている。
私を絞り尽くすつもり? 魂の源核まで抉り取るつもり?
アビスで寝言でも見ていなさい。
「ナイメリア。これはドリスタンが、お前に遺した絶筆だ」
老王は血に染まった羊皮紙の巻物を、私の前へ差し出した。
かつて覇気に満ちたその手は今、抑えきれず震えている。濁った涙が皺だらけの頬を伝い、ぽたぽたと落ちた。老王の視線は大広間中央の、重々しい黒曜石の空棺に釘付けだ。たった一夜で命の火を吸い尽くされたようだった。
古竜の血筋は、繁殖に残酷な呪いを抱えている。玉座にあろうと、息子はひとり。しかもその唯一の血脈は、昨夜の婚礼の直後に去った。老境の君主は、自らの骨肉を弔う定めを背負わされる。
私は大理石の段上に立ったまま、微動だにしない。
羊皮紙を見つめる瞳の奥には、冷たい暗流――そして、隠しきれない歓喜があった。
そこに何が書かれているか、私は誰よりも知っている。
ドリスタンは血に浸したペンで、歪に震える文字を綴った。
『君と白髪になるまで添い遂げると誓ったのに、約束を破ったのは僕だ。魂に来世があるのなら、冥河を越えてでも君の傍に行く。永遠に君と共に――』
前世、この血の恋文に私は一撃で崩れた。血涙を飲み込み、たったひとりで傾く王廷を背負った。
死の間際、真実が私を引き裂くまで――あれは遺言ですらなかった。ヴェスペラが背後に立ち、ドリスタンの手首を握って、一文字ずつ教え込みながら書かせた偽りだったのだ。
「私はナイメリアを知り尽くしてるの」
あのとき彼女は自信満々に嗤った。
「悲劇の英雄の臨終の誓いに、抗える女なんていない。手紙一通で、あの子は忠犬みたいに王権を守って死ぬわ」
今、同じ茶番――血縁と愛の二重の裏切りを前にして、私の胃は冷たく捩れて吐き気がした。
視線の端を、極寒の刃のようにヴェスペラの背後へ滑らせる。
そこに立つ背の高い無言の影。大広間の誰もが、妹に付き従って宮廷へ上がった卑しい従者程度にしか見ていない。
だが私は知っている。
あの冷たい面甲の下にいるのは、本来なら棺に横たわっているはずの王太子――ドリスタンだ。
仮死で逃げおおせ、溝鼠のようにヴェスペラのスカートの陰へ潜り込み、義妹と情を交わしながら、帝国に残骸のような後始末を丸投げした男。
その本人が今、他人事のように大広間の生き別れと死に別れを眺めている。
「ナイメリア様」
ヴェスペラが裾を摘み、恐ろしく丁寧な歩幅で近づいてくる。碧の瞳には、完璧に近い涙がいっぱいに張られていた。
「どうか、開いてご覧になってください。ドリスタンは最後の息まで、心も目もあなた様だけでした。王后陛下にもお聞かせしましょう。あの方の偉大な、叶わなかった愛の言葉を。陛下も……お子が悔いなく逝ったと、思えるはずですから」
瞬く間に、貴族も廷臣も、針のような視線を私へ集めた。
分かっている。ヴェスペラは私を巧みに世論の檻へ押し込もうとしている。
この手紙を最高評議会に見せれば、ドリスタンが私を深く愛していた――そう確信して動くだろう。ここで私が婚姻の誓約を捨てれば、私は領内随一の冷酷な悪女に落ち、母方の家の紋章までも永劫に汚す。
脇の席にいる王后が、かすかに唇を開く。言いかけて止めた、そんな気配。権勢ある母もまた、息子の最後の書簡を渇望しているのは明白だった。
息が詰まる沈黙を破ったのは、王城防衛線の指揮官だった。
扉を乱暴に押し開けて駆け込み、泥だらけのまま片膝をつく。
「陛下! 王太子殿下の戦死を聞いて、アビスの魔族が大軍で押し寄せるという噂が広まり、守備隊の陣営は恐慌状態です! 絶望が蔓延し、すでに数百の兵が脱走して散り散りになりました!」
老王が跳ね起き、鉄甲がぶつかり合って鈍い音を立てた。
王后は怒りで震え、鋭く罵る。
「我が子が国のために命を捧げたばかりだというのに、あの臆病者どもは逃げ出すのか! 絞首台がお似合いの裏切り者め!」
老王は疲れ切ったように手を振り、顔面蒼白の指揮官を下がらせた。そして濁りながらも威厳ある眼差しを、大広間の面々へ向ける。
「どれほど情勢が崩れようとも、余が王都の最後の防壁となる」
「万が一、アビスの魔族が城門を破る日が来たなら、暗道からお前たちを先に逃がす。余は――最後の一滴まで血を燃やし、怪物どもと相討ちにしてくれる」
大広間に低く怯えた囁きが広がった。
その中で私は見逃さなかった。老王が殉国の覚悟を口にした、その刹那――ヴェスペラの背後の影が、ほんのわずかに靴先を動かしたことを。冷たい鎧が、硬直したかのような小さな擦過音を鳴らしたことを。
父が、お前の残した瓦礫のために最後の血を流そうとしている。ドリスタン、今どんな気分?
一通り言い切ると、老王は再び私へ目を向けた。哀悼に濡れた、けれどどこか温和な声で。
「ナイメリア。昨日誓いを結んだばかりだというのに、今日はもう天と地で隔てられた。これは運命の神々の、残酷な戯れなのかもしれぬ……」
重い溜息が落ちる。
「子よ。これから、どうするつもりだ」
大広間は水を打ったように静まり返った。
皆が待っているのだ。私が涙に濡れて忠誠を誓い、「犠牲」という名の枷を自ら嵌める瞬間を。
私は顔を上げ、玉座の悲嘆の眼差しを正面から受け止めた。視界の隅には、ヴェスペラが勝利を噛み殺す口元さえある。
それでも私は、血塗られた羊皮紙に一度も目を落とさないまま、衆目を真っ直ぐに射抜き、断ち切るように言った。
「再婚いたします」
