第2章
声が落ちた、その瞬間。広間は――死んだみたいに静まり返った。
誰もが目を見開き、信じられないものを見るように、私を凝視する。
ヴェスペラの背後に立つ鉄面の騎士は、ほとんど自制を失いかけていた。
ずん、と一歩。鎧がぎり、と耳障りに擦れる。反射的に剣へ伸びかけた手を、彼は歯を食いしばって押しとどめた。
冷えた面甲の奥。毒を含んだみたいな視線が、私に突き刺さる。今にも噛み殺したい、とでも言いたげに。
「再婚?!」ヴェスペラが真っ先に甲高く叫んだ。震える指先で私を指し、「ナイメリア、正気なの?」
「彼はこの王国のために血を流し尽くしたのよ! 竜の帝国の英雄なの!」翠の瞳に怒りが満ちる――お見事な演技だ。
「古き法と体面に従うなら、あなたは喪に服して貞節を守るべきだった。なのに別の男を探すつもり? 国境から逃げた脱走兵と何が違うの。あなたは彼を汚している!」
王妃は玉座に崩れ落ち、信じられないという顔で震えた。
「ナイメリア……本当なの? あの方の神聖な血脈を、そんなにも早く捨てるというの……?」
私は目を閉じ、胃の底から込み上げる吐き気を押し殺す。開いた瞳は、冷たい鉄のように冴えていた。
「ええ」
「冷血なクズ」ヴェスペラはとうとう仮面を引き裂いた。
「戦場の血もまだ乾いていないのに、もう別の男のベッドへ這い上がる気? ドリスタンが魂を持つなら、冥界から這い戻ってあなたを呪うわ!」
私はくすりと笑い、血に染まった羊皮紙を掲げる。
「でも、これは彼の遺言よ。来世があるなら、また私と一緒になりたいって。今世で縁がなかったなら、私はちゃんと生きる。殉死なんてしない」
「ありえない!」
その咆哮はヴェスペラのものではなかった。彼女の背後にいた鉄面の騎士が踏み出し、鋼の面具の下の声を怒りで歪ませる。
「開けて読め! 殿下が再婚を許すはずがない!」
一瞬で、満場の貴族の視線が、その卑しい護衛――大広間で吠えた無礼者に突き刺さった。
ヴェスペラは顔色を失い、慌てて前へ出る。国王の視線が護衛へ向かうのを、必死に遮った。
私は首をかしげ、嘲るように二人を眺める。
「ヴェスペラ……あなたの近衛が、封をした血書の中身をどうして知っているの? 過去を見抜く預言者なのかしら」
わざと間を置く。沈黙が、じわりと空気を支配していく。
「それとも、そもそも――」
「やめて!」ヴェスペラが裏返った声で叫んだ。「私の騎士は殿下のために怒っただけよ! 悲しみで口が滑ったの!」
「なら、犬は繋いでおきなさい」私は鼻で笑った。
そして国王を見据える。ほんのひとときで、この威厳ある君主は十歳も老けたようだった。疲れ切った手で顔を拭い、震える腕を上げて、力なく払う。
「好きにするがいい……竜族の王座に、去ろうとする心を引き留める力は残っておらぬ」
「だめです、陛下――!」ヴェスペラが食い下がる。
言い終える前に、私は踵を返し、広間に居並ぶ騎士と貴族たちへ正面から向き直った。
「ここにいる方々の中で、私を妻に迎える気はある?」声が高い天井に反響する。
これは挑発であり、救命でもある。ドリスタンの死は偽り。私は合法的に離縁できない。ここに残れば、同じ結末を繰り返す――滅びへ向かう宮殿に閉じ込められ、魔力を搾り尽くされ、魂の核を抉り出される。死人の鎖を断ち切る道は、再婚しかない。
短い沈黙ののち、誰も答えなかった。
貴族たちは目を伏せ、ひそひそと囁き合い、私の視線を避ける。この場で名乗り出る男は一人もいない。
胸の奥が、つんと酸っぱくなる。二度目の人生でも、結局この必死の結末から逃げられないの?
私の窮地を嗅ぎ取ったヴェスペラが、冷たく笑った。
「見た? ナイメリア。みんな馬鹿じゃない。結婚して数日で夫が戦死――そんな厄を呼ぶ女を誰が娶るのよ。次にあなたを娶った男も、すぐ墓に入るかもしれないわね」
嘲りの余韻が落ちきる前に。
重い樫の扉が、どん、と乱暴に叩き開けられた。
暴風が大広間へなだれ込み、たいまつの半分が一気に消える。雨の匂い、雷を孕んだ湿気、そして肌を押し潰すような魔力の圧。
影から一人の巨躯が踏み出した。黒い甲冑が火光を受け、蛇の鱗みたいな鈍い艶を放つ。
「俺が娶る」
人々が一斉に息を呑む。
カエルム。黒蛇一族の王太子だ。
竜と蛇は古き血縁を持つ。昨日アビスの魔族が国境を破った際、国王は蛇族へ救援の渡鴉を放ったという。ならば、この同盟軍の統帥が今到着したばかりでも不思議はない。
背後のドリスタンに苛立たしげに押され、ヴェスペラがよろけながら前へ出る。
「カエルム殿下! これは竜族の家の問題よ。越権だわ!」
カエルムは彼女を一瞥もしなかった。空気でも見るように無視し、まっすぐ私へ歩く。戦靴が石床を打ち、鋭い気配が広間を裂く。
私の半歩手前で止まり、見下ろしてくる。琥珀色の縦の瞳に、私の知らない感情が渦巻いていた。原始的で、昏く、けれど抗いようのない所有欲。
「ナイメリア」低い声が落ちる。
「俺が娶る。受けるか?」
廷臣たちが一瞬で沸き立った。
「蛇族の王太子が、寡婦を?!」
「ドリスタン殿下は新婚数日で戦死だぞ! 神の呪いだ! 黒蛇は死が怖くないのか!」
ヴェスペラが歯を軋らせる。
「蛇族は同じ起源でも、今は地位が天地ほど違う。ナイメリア、生きるために蛇に嫁ぐなんて……最後の誇りまで捨てるの?」
私は手を伸ばし、迷いなくカエルムの革手袋を掴んだ。
「受けるわ」静かで確かな声が、広間の隅々まで届く。
カエルムは戦場では冷酷で効率的だが、名誉を何より重んじる。竜族が蛇族を格下と見ようと、彼に付けば生き延びられる。私はもう、妹と前夫の屠殺台の羊にはならない。
衝撃に凍る視線の中、カエルムが銀の短剣を抜いた。互いの掌を切り、強く握り合わせる。
血契。
真紅の古き紋様が蛇のように手首へ絡みつき、皮膚に焼き付いた。魔法が血脈を灼き、契約が結ばれる。その瞬間、私と竜族王家――そしてドリスタンとのあらゆる結び目は、粉々に砕け散った。
国王は心が折れたように座へ沈み、疲れた手をひらひらと振って、私の離脱を黙認した。
「結界の壁が弱っておる……修復の手立てを探さねば」しゃがれた独り言。昨日の威厳ある王は、まるで亡霊だ。魔族がいったん退いたところで、アビスの影はなお皆の喉元を締め上げている。
私はもう玉座を振り返らない。カエルムに従い、広間を出る。
だが長い階段を下りかけたとき、うなじの産毛が一斉に逆立った。灼ける殺意が、背中に縫い付けられる。
私は最後に一度だけ振り返る。
ドリスタンが柱の傍で、棒立ちになっていた。拳を死ぬほど握りしめ、精鋼の籠手がわずかに歪む。冷たい鉄面具の奥、血走った目が狂気の嫉妬と殺気で渦巻いている。
私が見たのを確かめると、面甲の下の唇が、音もなく動いた。
その言葉が、はっきり読み取れた。
「売女」
私はとびきり甘い笑みを返し、背を向ける。
二度と振り返らずに、大広間を出た。
