第3章
数日も経たないうちに、私がカエルムと血の誓約を結んだという噂は、黒蛇氏族の駐屯地を暴風のように駆け抜けた。
彼が仮の陣を敷いている石造りの砦へ着いた途端、回廊越しに長老たちの怒号が鼓膜を刺す。
「殿下! あなたは黒蛇の王太子ですよ! 『夫を殺す』呪いを背負った竜族の未亡人のために、みずから名誉を投げ捨てるおつもりですか?! その魔女に暗い呪いでも掛けられたのでは?!」
冷たく硬い部屋に腰を下ろし、私は指先をきゅっと握り込んだ。胸の奥に、じわりと不安が湧く。
カエルムは、私が前世で謀られて惨死した真相など知るはずもない。噂話と、年長者たちの圧力に晒されるうちに、彼の心に私へのわだかまりが芽生えたら——この乱れた局面で、私はどう身を守ればいい?
逃げ道を必死に組み立てていた、そのとき。
バン、と鈍い音。重い木扉が押し開けられた。
カエルムは、冷気をまとった黒い竜鱗の戦甲すら脱いでいないまま、大股で私の前に立つ。長老たちの難癖には一言も触れず、硬い革の籠手に覆われた大きな手を、すっと差し出した。
掌の上で静かに光を放っているのは、璀璨たる幽藍の輝きを宿したアビス魔法の夜光珠。
「気に入ったか?」
低く響く声が、室内の陰りを一息で払った。
それを目にした瞬間、私は思わず息を呑んだ。母方の高位精霊の血は、生まれつき眩いものに惹かれる。けれど前世、私はドリスタンに百年も身も心も捧げたのに、あのクズ男がしたことといえば、私の魔力を際限なく搾り取るだけ。贈り物ひとつ、心に沿うものなど与えてはくれなかった。
視線を上げる。冷厳で、背筋の通った男がそこにいる。
胸の底に澱む不安が、言葉になって漏れた。
「……本当に、後悔しないの? みんなの非難を浴びながら、私みたいな悪名高い女を妻にして」
カエルムの動きが止まった。暗金の縦長の瞳が危うく細まり、扉の外に散れずにいる従者たちを、氷の刃のような視線で薙ぐ。
次の瞬間、彼は指を折りたたむようにして夜光珠ごと私の手を包み込み、熱を帯びた掌でぎゅっと握った。身を屈め、絶対的な侵略と庇護の気配で私を囲い込む。低く掠れた声は、揺るぎなく言い切った。
「ナイメリア。これは俺にとって、望んでも手に入らないほどの栄誉だ」
それから数日、竜都から荒唐無稽な報せが届いた。ヴェスペラが貴族議会を狂ったように口説き落とし、「未亡人」を名乗って皇太子妃を自称しようとしているという。老王は首を縦に振らないまま——なのに王妃はこの時、王家禁衛を差し向け、私を巨石皇宮へ強制的に召還した。
絢爛な寝殿。病の気に沈む王妃は、私の手を強く握りしめ、縋るような眼差しを向ける。
「ナイメリア……あなたが、私の息子の嫁のままでいてくれたら……この竜城は、あなたなしでは立ちゆかないの……」
枯れた頬に浮かぶ苦悶を見つめ、心は複雑に揺れた。
前世、私が竜族のために心血を注いだのは、彼女が欠けていた母の愛を埋めてくれたからだ。彼女の心疾を抑えるために、高位精霊の一族が代々守ってきた癒しの聖遺物まで使った。
けれど、今世は違う。二度と同じ道は歩まない。
私は心を硬くし、冷たく手を引き抜いて断った。王妃の慈しげな顔が、瞬時に強張る。
立ち去り際、病状が気になって足が止まる。半開きの扉の前まで戻り、ひと言だけ釘を刺そうとした——その瞬間。
地獄から這い上がってきたような男の声が、私の足を床に縫い付けた。
「母上、言っただろう! どれだけ頭を下げて頼んだって、あいつは残って魔力を差し出したりしないって!」
ドリスタン。
続けて、いつも慈愛に満ちていたはずの王妃が、歯噛みするような毒を吐いた。
「身の程知らずの小クズ! あの落ち着きのない混血の血なんて、骨の髄まで卑しいに決まってる。あなたが『死んだ』途端、待ってましたとばかりに黒蛇の床に潜り込んだんだもの!」
「じゃあ結界はどうするんだよ」
王妃の罵声と、ドリスタンの苛立った足音が殿内に反響する。重い槌で打たれるみたいに、私の中が崩れた。
石柱の陰で、私は凍りついたまま立ち尽くす。
——王妃は、全部知っていた。
前世。私は夫を失った痛みを噛み殺し、結界を守り抜いた。王妃は表向き涙をこぼして私を労わりながら、裏ではドリスタンとヴェスペラと共に、私が生きた血袋のように最後の一滴まで搾られるのを、冷ややかに眺めていたのだ。
よろめいて二歩退く。目の奥が熱く、酸っぱくなる。痛みが極まって、私は逆に笑ってしまった。
——なんてこと。私は、あの吸血鬼の巣に、ここまで綺麗に騙されていた。
そして結局、ヴェスペラの狂気じみた根回しは実を結んだ。
ドリスタンは法の上ではすでに「死人」だが、揺らぐ情勢を抑えるため、老王はヴェスペラの皇太子妃冊封式を盛大に執り行った。
冊封の日。カエルムは私の腕を取り、黒蛇氏族の代表として列席した。
ヴェスペラは、本来なら私のものだった紅玉の礼装を纏い、羽を広げた孔雀のように私の前へ進み出て、誇示する。
「ナイメリア。神の恩寵を大切にするってこと、あなたは分かっていなかったのね」
「ドリスタン殿下は、あなたを心の底から愛していた。死の間際まで、あなたを忘れられなかったのよ。なのに遺骨も冷えきらないうちに、あなたは他の男に嫁いだ」
翠の瞳に、毒がきらりと光る。
「もしもいつか、神が憐れんで、ドリスタンが冥界から蘇って帰ってきたら……泥の中に跪いて後悔する日が来るわ」
私は嘲るように口角を上げ、彼女の向こう——鉄面具の「近衛騎士」を真っ直ぐ射抜いた。
「そう。アビスに呑まれた人間が、どうやって蘇るの?」
「だって——」
ヴェスペラが顎を上げて言い返しかけた、その瞬間。騎士が鉄の肘で彼女を強く突き、彼女は電撃を受けたみたいに我に返った。危うく口を滑らせたと悟り、私を刺すように睨んで黙り込む。
やがて冠が戴かれ、ヴェスペラは高い階段の上で、居並ぶ勲貴の前に大言壮語した。
「私は、薄情で不義理な女たちとは違う! この冠を戴く限り、私ヴェスペラは命を懸けて帝国を守るわ。破損した魔法結界についても安心なさい。修復のためなら、すべてを捧げる!」
拍手が爆ぜる。竜族の重臣や貴族たちは、敬慕の視線で新たな皇太子妃を見上げ——次いで、その視線を蔑みの矢に変え、揃って私へ突き立てた。
「俺がナイメリアなら、とっくに恥じて喉を掻き切ってる! よく平然と立っていられるな」
「新しい太子妃はあんなに義理堅いのに、この裏切り者ときたら天地の差だ」
「厄災の化身だよ。最初から太子がヴェスペラを娶っていれば、戦死なんてしなかったかもしれない!」
彼らの目に、私は踏み躙っていい恥辱として映っている。
カエルムの気配が氷点まで落ちた。彼は一歩前に出て、黒い戦袍で私を厳重に背へ庇う。暗金の縦瞳に殺気が渦巻き、鋭く怒鳴りつけた。
「いい加減にしろ!」
黒蛇の王太子が放つ圧が、場を一瞬で凍らせる。誰もが息を殺した。
彼は高座の女を冷ややかに見据えた。
「言葉なら誰でも吐ける。ヴェスペラ。今日、俺の妻を踏み台にして自分を持ち上げたんだ。啖呵は最後まで切れ。高貴な顔を自分で叩く羽目になるなよ」
満場の権威を背に、ヴェスペラは顎を上げ、ためらいなく誓った。
「当然よ! アビスの魔軍が今日、王城に半歩でも踏み込むなら……帝国のために、私は万死に値しても退かない!」
バン——!
余韻すら落ちきらぬうち、重い殿門が叩き割られるように開いた。
半身が引き裂かれたも同然の竜騎衛が、勢いのまま大広間へ投げ込まれ、汚れた血が磨き上げられた大理石を一気に染める。
恐怖のどよめきの中、彼は血泡を吐きながら叫んだ。
「陛下……アビスの大軍が結界を粉砕……王宮は包囲されました!」
勝利と虚栄に酔っていた空気が、一瞬で死の静寂へ沈む。
兵は門框に爪を立て、最後の息で叫ぶ。
「悪魔どもが言いました……太子が奴らの将軍を討った。今日、血の代償を払えと。停戦を望むなら……皇太子妃を……皇太子妃を差し出し、アビスへ供物として捧げろと……!」
言い終えた手が、血溜まりへと力なく落ちた。動かない。
死のように重い静けさが、広間を覆う。
そして視線が、示し合わせたように私へ向いた。数日前まで、全土に知られた皇太子妃は——私だったから。
カエルムは私を背へ押し込み、黒い戦靴で床を軽く踏み鳴らす。怒りの頂点で、彼はむしろ笑った。瞳いっぱいの嘲弄。
「よく見ろ。ナイメリアは、今は黒蛇氏族の王妃だ」
彼の指が、高座を一直線に示す。
「おまえたち竜族の皇太子妃は、あそこに高々と立っているだろう」
一同が夢から醒めたように、視線を一斉に反転させる。
さっきまで大義を振りかざしていたヴェスペラの顔は、血の気を失っていた。
自分が生贄にされると理解した瞬間、彼女は狂ったように後ずさりし、裾を踏んで無様に尻餅をついた。
「いや! 行かない!」涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、必死に首を振る。栄誉の冠が、カンッと乾いた音を立てて落ちた。
「あいつらは血に飢えたアビスの悪魔よ……捕まったら魂まで噛み砕かれる……! 行かない! 絶対に行かない!」
短い動揺のあと、ついに貴族の一人が堪えきれず怒鳴った。
「皇太子妃殿下! 先ほど神に誓ったでしょう、帝国のためなら万死に値しても退かぬと! いざとなれば、全部嘘だったのですか?!」
ヴェスペラは言葉を失った。恐怖で溺れる獣のように、絶望の目で左右を見回す。
そしてどこから捻り出したのか、急に身を翻し、背後の鉄面騎士の腕に縋りついた。壊れたように泣き叫ぶ。
「死にたくない! 助けて! なんとかしてよ——!」
面具越しでも分かった。鉄甲の下で男の筋が浮き、眼底には苛立ちがあふれ返っている。場を憚らなければ、この女を蹴り飛ばしていたに違いない。
混乱する貴族たちはその光景を見て、目つきが次第に怪訝へ変わっていく。
「……いざという時に、新しい太子妃は陛下に縋らず、なぜ近衛の侍従に泣きつく?」
「しかも、あの抱きつき方……親密すぎないか? まさか、関係が……?」
「そんなはずが。ヴェスペラは、亡き太子のために貞節を守ると言っていたのに……裏で衛士と絡んでいたのか?」
あまりに滑稽な茶番に、私はつい、声を漏らして笑った。
カエルムの背から一歩前へ出る。声は大きくない。けれど、一語一語が心臓を狙う刃だった。
「皆さま、何をそんなに驚くのです? これが密通だなんて、まさか」
全員が息を呑む沈黙の中で、私は笑みを深める。面具の下で、騎士の目が瞬間的に縮むのを、愉しく眺めながら。
「だって、彼女の隣にいるその卑しい鉄面の騎士は……あなたたちが棺に眠っていると思い込んでいた——ドリスタン殿下、その人そのものなのですから」
