第4章
広間は死んだように静まり返り、空気さえ一瞬で吸い尽くされたかのようだった。
「ガチャン!」
国王が跳ね起きる。重い鎧がぶつかり、鈍い衝撃音が響いた。王は私を睨みつけ、声を震わせながら叫ぶ。
「ナイメリア……自分が何を口にしているのか、分かっているのか?!」
隣のカエルムが、琥珀金の縦長の瞳を細めた。私の言葉に驚いたのは明らかだが、手を緩めるどころか、さらに強く庇うように抱き寄せる。ひやりとした威圧が、刃のように場を薙いだ。
無数の視線が凍りつく中、『鉄面の騎士』は感電したかのように身を跳ねさせ、しがみついていたヴェスペラを乱暴に振りほどいて床へ投げ捨てる。疫病を避けるみたいに、さっと距離を取った。
ヴェスペラの身体が冷たい大理石に叩きつけられた。その痛みで、彼女は「生贄にされる」という錯乱からようやく現実へ引き戻される。同時に、さっき口走った救いを求める叫びが、どれほど致命的だったかも悟ったのだろう。
「何をでたらめ言ってるのよ!」
手足をばたつかせて起き上がり、甲高くしゃがれた声で喚く。
「ドリスタン殿下は帝国のために戦死された! そんな方が私の騎士になるはずがないでしょう! わ、私は……さっき怖くて、近くにいた人にとっさに助けを求めただけ!」
「そう?」
私は冷たく笑い、大理石の床を踏みしめながら、あの背の高い騎士へ一歩ずつ迫った。
一歩近づくたび、鉄甲に包まれた彼の脛が小刻みに震え、じり、と後退する。
声を張り上げる。言葉は一つずつ、心臓を穿つ刃。
「ずっとおかしいと思ってた。ヴェスペラが冠を戴いた途端、『死んだ皇太子のために貞節を守る』って言い張ってたのに、寝所にはいつの間にか、片時も離れない男の護衛が増えてる」
「そいつがドリスタンなら――ぜんぶ説明がつく。薄汚い企みも、何もかも!」
「ナイメリア! その毒を吐く口を閉じなさい!」
病床の王妃が凄絶な悲鳴を上げた。病的に青白い顔が怒りで歪む。
「私の息子は帝国のために命を捧げた! あなたは婚姻を裏切っただけじゃなく、今度はその名誉まで泥に塗りつけるつもり?!」
私は取り合わない。騎士だけを睨み据える。
「なら、兜を取ればいい」
視線を広間全体へ走らせる。
「中がドリスタンじゃないなら、私は高位精霊の血脈核をえぐり取って、この場で罪を認める」
「でも、もし――」
「や、やめろ! 俺はアビス境界で重傷を負った! 顔が醜い、宮廷を驚かせる!」
騎士が狼狽して遮った。声が擦れ、裏返っている。
だが、玉座の上の国王は盲目ではない。
剣を握る手の形、立ち姿の癖――王の鋭い老眼がそこを捉えた瞬間、顔色が鉄のように変わった。次の刹那、老王の咆哮が雷鳴のごとく轟く。
「王家禁衛! そいつを押さえろ! 鎧ごと引き剥がせ!」
屈強な重装の禁衛たちが獣のように飛びかかる。騎士は本能的に暴れたが、長柄武器に押さえつけられ、金具が乱暴に引きちぎられる耳障りな裂け音が響いた。
「ガァン!」
重い鉄面が大理石に叩き落とされる。
――息を呑む音が、広間に揃って走った。数人の貴婦人が口元を押さえて青ざめる。
アビスの炎の傷跡はない。醜く崩れた顔もない。
眩い松明の火に晒されたのは、蒼白で、屈辱と極度の恐怖に塗れた顔。
『埋葬されたはず』の帝国皇太子――ドリスタン、その人だった。
嘘は粉々に砕け、彼は金色の頭を絶望のまま垂れた。
全身血にまみれた前線指揮官が、折れた大剣を地面へ叩きつける。目は血のように赤く、ドリスタンを指差して怒鳴り散らした。
「殿下……殿下は、あなたのために身を盾にして死んだ騎士たちに顔向けできるんですか?! 防衛線が崩れたとき、俺たちは殿下が勇敢に戦死したと信じた……誰も責めなかった! なのに――責任から逃げるために死を偽った?! 分かってるのか、殿下の『戦死』で辺境の士気は完全に崩れ、何百何千の兵が悪魔に生きたまま喰われた! よくも……生きてここに立てるな!」
隣のカエルムが、氷のように冷たい嗤いを漏らす。
「黒蛇の軍がまだ到着途中で助かったな。でなきゃ結界の外で、この『勇敢な』竜族の太子に一緒に殺されてたところだ」
万人の糾弾を浴びても、ドリスタンは歯を食いしばったまま、一言も吐かない。
玉座の国王は、張り詰めた糸が切れるように、魂を抜かれた顔になった。荒い息が喉を鳴らし、次の瞬間――
「ぶっ……!」
黒い血を大きく吐いた。
「貴様は……帝国の恥だ!」
国王は階段に膝をつき、支えようとした臣下を乱暴に押しのける。震える指が、ドリスタンの顔を突き刺す勢いで伸びた。
「皇太子の座を剥奪しろ! アビス牢獄へ叩き込め! 雷の裁きで……その霊脈を生きたまま叩き割ってやる!」
「お願い、陛下!」
王妃が転がるようにすがりつき、国王の脚へしがみつく。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら叫んだ。
「その子は、あなたのたった一つの血筋なのよ!」
国王は彼女を振り払う。老いの涙を流しながら、声を絞った。
「私が……帝国に取り返しのつかぬ恥を背負わせた!」
大勢は決した。床にへたり込んでいたヴェスペラがびくりと震える。ドリスタンと一緒に門外の悪魔へ投げ渡されるのを避けたい一心で、甲高い叫びで必死に縁を切り始めた。
「陛下! 私は無実です! 全部ドリスタンが私を脅したの! 黒魔法で惑わせて、私を隠れ蓑にしただけ! 悪魔に渡すならあいつを渡して! どうか私だけはお赦しを!」
その言葉を聞いた瞬間、ずっと死んだふりをしていたドリスタンが、猛然と顔を上げた。
荒い呼吸。屈辱と裏切りで充血した目が、ヴェスペラを刺し殺すように睨みつける。
帝国の一線を丸ごと捨ててまで手に入れたと思っていた「愛」は、いつでも切り捨てられる取引にすぎなかったのだ。
「惑わせた……だと?」
ドリスタンが発作のように笑い出す。歯を剥いた狂犬みたいに、彼女へ飛びかかろうとする。
「今さら被害者ぶるのか?!」
「ヴェスペラ……誰が、夜ごと俺の胸にすがりついて囁いた? ナイメリアの中の高位精霊の核を抉り出せば、結界を修復できる魔力が手に入る――堂々とその王冠を被れる、って!」
彼は高台の上で唖然としている国王へ向き直り、掠れた悪意の声で吐き捨てる。
「父上! 偽装死を提案して、ナイメリアの魔力が尽きるまで騙し続けようと言った毒婦はこいつだ! 俺に『栄誉の戦死』を書かせた血書も――こいつが無理やり書かせた!」
老王は「血書」という言葉を聞いた途端、身体がぐらりと揺れた。頬を強く殴られたように。
その一言で、ヴェスペラは最後の力まで抜かれたように真っ白になり、床に崩れ落ちる。葉のように震えながら。
ぱん、ぱん――澄んだ拍手の音が、刃のように彼らの毒蛇じみた噛み合いを断ち切った。私は傲然と見下ろし、凍りつく視線で告げる。
「見事な共犯ね」
「ドリスタンは偽装死で姿を消して、情に訴える血書を残した。私は『未亡人』という鎖で縛られ、喜んで命を燃やして結界を繕うよう仕向けられる。そしてヴェスペラは、私の魔力が尽きるのを影で待ち、いつでも核を抉り取るつもりだった」
私は鼻で笑う。言葉は刃となって落ちる。
「もし私が、あなたたちの嘘を本気で信じて、この人喰い宮殿に留まっていたら……最後に残ったのは、果たして『全身』だったかしら?」
それは紛れもない真実だ。前の人生で、私はそうして生きたまま吸い尽くされたのだから。
「核を……抉り取る?」
低く、底冷えする声が広間に炸裂した。まるで極寒のアビスの底から響いてきたかのように。
