第1章 彼に会う!
三十分前、若林星奈は私立の全寮制精神療養院、その高い塀を越えた。
裸足のまま、ぬかるんだ道の水たまりへ踏み込む。皮膚が裂け、肉がめくれた足裏は、一歩ごとに新しい裂け目が増えていった。
土砂降りの雨だけが、パジャマに染みついた鼻を刺す安物の消毒液の臭いと、乾いて褐色に変わった古い血痕を、どうにか洗い流してくれる。
三年の地獄のような苦しみは、かつて品位をまとっていた名門令嬢を、人とも鬼ともつかぬ獣へ削り落としていた。
両手首には、長年拘束帯に締め上げられて盛り上がった肉の跡が幾重にも走る。袖をまくり上げた前腕には、強制注射の痣と針穴がまだらに広がっていた。
薄いボロ布の端には、電気椅子のレザーパッドから無理やり剥ぎ取った血まみれの皮片が、べったりと貼りついている。
大量の鎮静剤を飲まされ続けたせいで、手は勝手に痙攣し、震えが止まらない。目の周りには、日光を知らぬ年月が沈殿したような青黒さ。
けれど右手だけは――ずっと、だぶだぶのポケットの奥で握り締められていた。
粗い布地の下に隠れているのは、禁固室の壁から爪で抉り取った、角の立ったセメント片。
今夜、誰であろうと子どもに会う邪魔をするなら、この石で頭蓋を叩き割る。
冷たい雨水が首筋へ逆流し、脳裏にはちぎれた記憶が何度も浮かび上がる。
三年前――彼女は手術台の上で優斗を産んだ。
分娩台の上の産婦は、赤ん坊の顔すらろくに見ぬまま、他人の腕に奪い取られた。
産後の身体で床へ転げ落ち、必死に這って手を伸ばす。指先がタイルを削り、長い血の筋を引いたのに、掴めたのは空気だけ。
その後、山川心菜が高級仕立てのコートに身を包み、療養所の防弾ガラス越しに花が咲くように笑った。
「あなたは一生、その子に触れる資格なんてないわ」
直後、屈強なヘルパーに乱暴に引きずられ、高圧電流が皮膚を突き抜ける。歯で唇を噛み切り、鉄錆の味が口いっぱいに溢れた。
土砂降りの中、若林星奈は奥歯を噛み締めた。尖った砂利が足裏を貫いても構わない。
徒歩で三十キロ――狂ったように走り続け、空が白み始める頃、彼女は西野家別荘の前でようやく立ち止まった。
門の内側には高級車が並び、贅沢な黄色の灯りが庭の溜まり水に反射して、目を刺すように煌めいている。門の外の女は泥を纏い、裸足からは新しい血が滲み続けていた。
磨き上げられた大理石に足を乗せる。泥と血が混じった赤い足跡が、点々と続いた。
泥だらけの掌でインターホンを押す。
「若林星奈です」
しゃがれた声が電子越しに邸内へ響き渡った。
当直の監視室にいた川村は、その声を聞いた瞬間、膝が抜けて床に崩れ落ちた。西野家の人間は皆、あの狂女は療養所で腐っていると、内心決めつけていたのだ。
川村の震える指がボタンを押し間違え、重い彫刻入りの鉄門が、ぎい……と左右に開いていく。
一階のパーティーロビーは灯りに満ち、暖房の空気に最高級のシャンパンと高価な香水が絡み合う、甘ったるい贅沢な匂いが漂っていた。着飾った客たちはグラスを掲げ、笑い声を交わしている。
分厚い木の扉が、血のついた両手で乱暴に押し開けられた。
外の嵐が、生臭い泥水の匂いを引き連れて、一気に会場へなだれ込む。
室内を埋め尽くす客の視線が、扉の向こうに現れた鬼のような女に吸い寄せられた。傷口がふやけて染み出した黄ばみ混じりの泥水が、百万円級のペルシャ絨毯にぼたぼた落ちる。周囲の人々は口元を押さえ、露骨に顔を歪めて後ずさった。
「どこから来たんだ、この狂人! 警備員を呼べ!」
人混みの中心では、山川心菜がシャンパングラスを手に、西野直人の広い胸にもたれて甘えた声を出していた。来客の顔を認めた瞬間、彼女は肩をすくめて男の背へ隠れる。
「直人……あの人、どうして病院から……」
「こわい……」
だが西野直人の視界の死角で、山川心菜の吊り上がった眉には抑えきれない歓喜と得意が滲んでいた。かつて高嶺にいた令嬢は、今や見る影もない――負け犬。
西野直人は顔を横に向け、若林星奈の血と泥に塗れた残骸のような身体を冷たく眺めた。端正な顔に、憐憫はひとかけらもない。ただ、むき出しの嫌悪だけ。
「またここへ来て、何を発狂してる」
「そんな化け物みたいな格好して、誰に同情でも売るつもりだ」
「お前みたいなのがいると子どもが怯える。今すぐ出て行け」
その傷も、精神科で自傷して作った芝居だと、当然のように決めつけている。
若林星奈はその場から一歩も動かなかった。かつてのように卑屈に泣き縋って弁解もしない。生気のない目で、ただ真正面から男を見据える。
ポケットの中、指先が掌を深く抉り、血が滲んだ。温い血が手の皺を伝い、角ばったセメント片を完全に濡らしていく。
「優斗に会う」
かすれた声には、退かない決意がむき出しだった。瀕死の獣が反撃に転じる直前の圧。西野直人の胸に、理由のない苛立ちが渦を巻く。
以前の若林星奈の目には、恋慕と委屈が詰まっていた。それが今や、あの虚ろな眼窩の奥には、いつでも心中を厭わぬ狂気だけが煮えたぎっている。
「お前に会う資格があるか」
「私は、母親よ」
山川心菜がタイミングよく西野直人の袖を掴み、囁く。
「直人、見せてあげたら? パーティーの場で騒がれたら西野家の評判に響くわ」
西野直人は眉をひそめ、視線を逸らして使用人へ手を振った。
「屋根裏部屋で一目見せろ。すぐ追い出せ。床を汚すな」
青ざめた使用人が前へ出て、若林星奈に付いて来いと合図する。
若林星奈は振り返り、血と肉が潰れた足を引きずって廊下の奥へ向かった。
二歩も進まぬうち、背後から客のひそひそ声が降りかかる。
「あの子も不運だよな。精神を病んだ母親のせいで、ずっと屋根裏部屋に押し込められていたんだから」
「西野社長、縁起悪いって放置してるって。腹いっぱい食わせてもらえず、犬と餌の奪い合いだとさ」
そのときポケットのセメント片が掌を貫き、熱い血が絨毯へぽたり、ぽたりと落ちた。
振り返らない。ただ歩幅を上げる。
金ぴかのロビー廊下を抜けた先――別荘の奥。そこだけ床はむき出しのコンクリートで、突き当たりに、黒ずんで痩せた古い木の扉が立っていた。
案内の使用人――高田が震える手で鍵を取り出し、錆びた鍵穴を回す。
扉が開いた瞬間、吐き気を催す排泄物の生臭さが噴き出した。
中に灯りはない。急で狭い木の階段が、溶けない闇の奥へ続いている。案内の使用人は鼻を押さえ、三メートルも離れて一歩も近づこうとしない。
若林星奈は階段の上の濃い闇を見上げた。胸の中で心臓が暴れ、脆い肋骨を叩く。
三年だ。
命と引き換えに産んだ、たったひとりの子。
血まみれの右足を持ち上げ、黒ずんだ一段目へ踏み出す。
腐った木板が、ぎしり、と耳障りに軋んだ。
二段目へ移ろうとした、その瞬間――
頭上の闇の奥から、金属の鎖が床を擦る、澄んだ音が響いた。
