第6章 彼と関係ができた?
マンション内。
若林星奈は裸足のまま、柔らかなウールの絨毯を踏んでいた。肩に掛けているのは、神田健斗のスーツジャケット。シダーウッドの香りが、かすかに鼻先をくすぐる。
最上階の広い部屋は、冷たい色調のミニマルな内装で統一され、空っぽなほど生活の気配がない。
それでも――ここには、三年のあいだ一度も手にできなかった「息を吸える場所」があった。
神田健斗は玄関脇から新品のスリッパを取り出し、彼女の足元へそっと置いた。それから少し離れた部屋を指す。
「バスルームはあちら。クローゼットに着替えがある。全部、新品だ」
声は落ち着いているのに、どこか意図的に距離を保っている。
言い終えると、彼はそのままオープンキッチンへ向かい、冷蔵庫から牛乳を取り出して鍋に注ぎ、火にかけた。
西野直人のことも、子どものことも、この三年の出来事も――一つも訊かない。
その「ちょうどいい沈黙」が、今の若林星奈には最大の敬意だった。
血まみれの傷口をもう一度こじ開けて、誰かに説明する力など残っていない。
熱い湯が頭上から落ちた瞬間、張り詰めていた神経が、ようやく少しだけほどけた。
鏡の中の女は、青白い。唇に血色がなく、目は空洞みたいに怖い。
みじめで、憔悴し、嵐に叩かれて散る寸前の花――そんなふうに見えた。
目を閉じると、勝手に像が浮かぶ。
怯え切った息子の目。冷たい父の墓碑。山川心菜の、勝者の顔。
憎しみが蔦みたいに、また彼女の身体へ絡みつく。
――倒れられない。
父の仇を取っていない。優斗を、あの地獄から救い出していない。
生きる。
釘のように、西野直人と山川心菜の生活に深々と打ち込んでやる。昼も夜も、息ができないほどに。
風呂から出ると、リビングのテーブルに温かい牛乳と、切った果物が用意されていた。
神田健斗の姿はない。
若林星奈はソファまで辿り着いたところで、限界だった。
もう一歩も進めず、そのまま身を丸める。神田健斗のジャケットで自分をきつく包み込み、震えを押し殺した。
意識が闇へ沈む最後の一秒、ふと思う。
――これが、三年で初めての、まともな眠りかもしれない。
……
西野家別荘、書斎。
西野直人は苛立ちにネクタイを乱暴に引き抜き、脇の椅子を蹴り倒した。
高級な椅子が床を削り、ぎいっと耳障りな音を立てる。
「役立たず! 揃いも揃って役立たずだ! 女一人、見つけられないのか!」
秘書の千葉大翔は壁際に立ったまま、息すら止める勢いで縮こまっていた。額には冷汗がにじむ。
「西野社長……防犯カメラを追いました。若林さんは黒いベントレーに乗っています。その車はそのまま『天境マンション』の地下駐車場へ……うちの人間では、入れません」
天境マンション。雲城でも最上級のレジデンスだ。警備は鉄壁、住人の許可がなければ蝿一匹入れない。
西野直人の眼底が、暗く光った。
「調べろ。車の持ち主は誰だ」
千葉大翔の顔がさらに強張る。
「……調べました。車主は……神田グループの社長、神田健斗です」
神田健斗。
その名が雷みたいに、西野直人の脳内で炸裂した。
半年前、海外から突然戻り、苛烈な手で神田グループを統合した男。ビジネス界を荒波に変えた怪物。
手段は容赦なく、底が見えない。誰も侮れない――そう噂される存在だ。
若林星奈が、なぜそんな男と繋がっている。
「……どうして知り合ってる」
千葉大翔は冷汗を拭い、声を落とす。
「資料によれば、七年前、神田健斗は白血病で……そのとき骨髄提供をしたのが、若林さんです」
「……っ!」
西野直人は机を殴りつけた。どん、と鈍い音が書斎に響く。
そういうことか。
だから、じいちゃんがあんなに早く嗅ぎつけた。神田健斗ほどの権勢があれば、三年前の細工など掘れば一瞬で出てくる。
自分が飽きて捨てた女。自分の手で精神科病院へ放り込んだ“女”。
それが今さら、神田健斗という高枝にすがった?
しかも――神田のベッドで泣きつき、委屈を訴えているかもしれない。
その想像がよぎった瞬間、腹の底から怒りが噴き上がった。
許せない。
若林星奈は俺のものだ。
捨てたゴミであろうと、他の男が拾う権利はない。
「場所」
歯の隙間から吐き出した二文字は、血の匂いを帯びていた。
「西野社長、天境マンションA棟の最上階です。ただ、今から行かれるのは――」
最後まで聞く前に、西野直人はもう走り出していた。
リビングで物音を聞きつけた山川心菜が駆けてきて、慌てて腕を掴む。
「直人、こんな時間にどこへ行くの?」
「触るな!」
西野直人は乱暴に振り払う。山川心菜はよろけ、壁に肩をぶつけた。
彼は一瞥もせず、ガレージへ向かう。
――ドン、ドン、ドン!
重く荒いノックが、最上階の静寂を叩き割った。
扉が開く。そこに立っていたのは神田健斗だった。
西野直人の怒火が、さらに燃え上がる。
「若林星奈はどこだ」
命令口調で言い捨てる。
「出せ。今すぐ、ここに出せ」
神田健斗は入口に立ち、その巨体で行く手を塞いだ。壁みたいに動かない。
淡々と見下ろし、冷えた声で告げる。
「西野社長、場所を間違えている」
「ふざけんな!」西野直人は怒鳴り、押し入ろうと手を伸ばす。
「彼女は俺の女だ。今日、必ず連れて帰る!」
門枠に触れる前に、手首が捕まれた。
鉄の鉗子みたいな握力で、骨が軋む。
西野直人が驚愕して顔を上げると、神田健斗の口元には氷点下の嘲りが浮かんでいた。
「お前の女?」
「自分で地獄へ送って、路上にゴミみたいに捨てた女が?」
西野直人の瞳孔がきゅっと縮む。
神田健斗はゆっくりと顔を寄せた。圧が強すぎて、息が詰まる。
「西野直人、よく聞け」
「お前が彼女を捨てた瞬間から――彼女はお前と、一切関係がない」
二人が玄関先で睨み合う、そのとき。
ソファで眠っていた若林星奈は、口論の声に叩き起こされた。
暗闇の中で、目を見開く。
憎んで憎んで憎み尽くした声が、はっきり耳へ届く。
――西野直人。来た。
