第7章 彼こそが彼女の男だ!

彼女は勢いよくソファから身を起こした。身に掛けていた神田健斗のスーツジャケットが、するりと床へ落ちる。

物音に、玄関先の二人の男も同時に視線を向けた。

西野直人の瞳孔が、ぎゅっと縮む。

目の前の若林星奈は、ついさっき風呂を上がったばかりなのだろう。髪はまだ半乾きで、無造作に肩へ落ちている。

身につけているのは、ぶかぶかの白いシャツ。ひと目で男物とわかる仕立てだった。華奢な身体にゆるく掛かっているせいで、細い鎖骨の線がいっそう際立って見える。

そのシャツは――神田健斗のものだ。

ほかの男の服を、着ている。

彼女の男は、自分のはずなのに。

この女は、髪の先から爪先まで、全部自分のものだったはずなのに。

「若林星奈! この恥知らずが! 俺のところを出た途端、もうほかの男のベッドに潜り込んだのか!」

頭から浴びせられたのは、泥水より汚い罵声だった。

けれど若林星奈は、眉ひとつ動かさない。

裸足のまま柔らかなカーペットを踏みしめ、一歩、また一歩とリビングの影から歩み出る。

「失せて」

ひやりと冷えた、温度のない一言。

その態度が、西野直人の癇に完全に障った。

「誰に向かって言ってる? 若林星奈、お前、自分の立場を忘れたのか」

「お前は俺が捨てた女だろうが! そんな分際で、ここで俺に吠える資格があると思ってるのか!」

今すぐ中へ踏み込みたい。彼女を掴みたい。あの目障りなシャツごと、ずたずたに引き裂いてやりたい。

だが、神田健斗が石像のように玄関を塞いでいた。微動だにしない。西野の手首を掴むその手には、さらに力がこもる。

ごきっ。

鈍い音を、確かに聞いた気がした。自分の手首の骨が、嫌な角度へずれた音を。

走った激痛に、西野は息を呑む。熱くなっていた頭が、その瞬間だけ少し冷えた。

勝てない。

少なくとも今、真正面からぶつかっても、神田健斗には敵わない。

西野直人は乱暴に手を振りほどき、一歩後ろへ下がった。視線だけは、再び若林星奈へ絡みつかせる。

力で駄目なら、やり方を変えるまでだ。

この女の弱いところなら、知り尽くしている。

「若林星奈。お前とここで無駄話をしてる暇はないんだ」

さっきまでとは打って変わって、その声に妙な柔らかさが混じる。だが上から押しつけるような、恩着せがましい響きだった。

「じいさんがお前のことを知った。迎えに来いって言われたんだ」

――じいさん。

その言葉に、若林星奈の心臓がびくりと震えた。

西野家で、ただ一人だけ。本気で自分に情をかけてくれた人。

三年前、あの人が直人の口実で海外療養へ追いやられていなければ、自分が精神科病院へ送られるのを黙って見過ごすはずがなかった。

表情の揺らぎを見逃さず、西野直人は自分が急所を突いたと確信した。じわりと距離を詰め、いっそう低い声で囁く。

「年寄りは刺激に弱い」

「お前が、ほかの男の家に転がり込んでも帰ろうとしないと知ったらどうなるか……わざわざ俺が言わなくてもわかるだろ」

そこでわざと間を置く。

「それに――息子に会いたくないのか」

息子。

優斗の、あの怯え切った目が脳裏をよぎる。もやしみたいに細い身体。あの陰気で湿った屋根裏部屋に閉じ込められたままの姿。

胸の奥を、無数の針で往復されるように痛んだ。呼吸さえ苦しい。

その反応に、西野直人は満足げに目を細める。勝った、と思っている顔だった。

一歩前へ出る。神田健斗の横を抜け、若林星奈の真正面へ。

身をかがめ、二人にしか聞こえない声で、甘く腐った悪意を耳元へ垂らした。

「俺と帰れ。おとなしく言うことを聞くなら、あいつに会わせてやる」

「それどころか……屋根裏部屋から出してやってもいい」

さらに低く、ねっとりと。

「でも、逆らうなら別だ。山川心菜がどんな女か、お前が一番よく知ってるだろ」

「誰にも望まれてない雑種なんて、あいつがどう扱うか……俺は保証しない」

若林星奈の身体が、目に見えて強く震えた。

わかっている。

山川心菜がどれだけ底意地の悪い女か、わからないはずがない。

精神鑑定をでっち上げて、自分をこの手で地獄へ落とした女だ。抵抗もできない子どもひとり、見逃すはずがない。

賭けにはできない。

優斗の命だけは、絶対に。

地獄か、奈落か。

どちらを選んでも救いはない。それでも、ほかに道がなかった。

若林星奈はゆっくりと顔を上げる。

「……わかった」

掠れた声が、広いリビングに落ちた。

「あなたと帰る」

その返事に、西野直人は手を伸ばした。腕を掴もうとした、その瞬間――横から伸びた大きな手に、容赦なく払いのけられる。

いつの間にか、神田健斗が若林星奈の隣に立っていた。

「着替えが必要だ」

静かな声だった。だが有無を言わせぬ硬さがある。

西野直人の顔色が、すっと暗く沈む。

それでも、どうにか堪えた。どうせ戻るのだ。もう自分の手の内にある獲物なのだから、今すぐ噛みつく必要はない。

「五分だ」

冷たく言い捨てる。

リビングには、若林星奈と神田健斗の二人だけが残された。

「本気で戻るつもりか。罠だ」

神田健斗が眉を寄せる。

「戻るしかないの」

「子どもを握られてる」

神田健斗は黙り込んだ。

そこが彼女の致命傷だと、理解しているからだ。誰にも解けない結び目だということも。

それ以上は止めなかった。代わりに玄関脇の隠し収納へ向かい、二つの物を取り出して彼女の手のひらへ押し込む。

「これは……?」

若林星奈が手を開く。

掌に乗っていたのは、マッチ箱ほどの薄い携帯電話と、一見すると何の変哲もない銀のペンダントだった。

「特注の携帯だ。登録してあるのは俺の番号だけ。外から追えない」

「こっちは緊急用のアラームだ」

神田健斗はペンダントを手に取ると、自ら彼女の首へ掛けた。冷たい金属が肌に触れ、若林星奈の肩がかすかに揺れる。

そのままシャツの中へそっと隠す。指先の動きは、驚くほど丁寧だった。

「覚えておけ」

「何があっても、これを三秒長押ししろ。三分以内に、俺の人間が必ず着く」

胸の奥を、小さく叩かれたような気がした。

三年間ずっと、彼女は闇の中で一人きりだった。獣みたいに傷を舐めて、生き延びることしか考えられなかった。

こんなふうに、手を差し伸べられる日が来るなんて、思ったこともない。

若林星奈は携帯を強く握り込んだ。爪が掌へ深く食い込む。

「……ありがとう」

顔を上げ、まっすぐに神田健斗を見る。

神田健斗は深く彼女を見返したが、何も言わなかった。

五分後。

クローゼットに用意されていた真新しい黒のカジュアルウェアに着替え、若林星奈はマンションを出た。

廊下では、西野直人が壁にもたれて煙草をくゆらせていた。彼女の姿を見るや否や、苛立たしげに吸い殻を揉み消し、すぐさま歩み寄って腕を取ろうとする。

だがその手は、またしても空を切った。

神田健斗が一歩早く若林星奈の隣へ並び、肩を並べて歩き出していたからだ。

「神田社長、どういうつもりです?」

西野直人の我慢は、とうに限界を超えていた。

「本人は俺と帰ると言ったんだ。まだ邪魔をする気か」

神田健斗は視線ひとつ向けない。ただエレベーターの階数表示を見つめたまま、淡々と言う。

「送るだけだ」

相談ではない。決定事項だった。

西野直人のこめかみに、青筋が浮き上がる。

送るだと。

何様のつもりだ。神田健斗ごときが、自分の女に触れていいはずがない。

やがてエレベーターが、チン、と乾いた音を立てて開く。

西野直人は拳をきつく握りしめ、奥歯を噛み締めた末、結局は無言でそのあとに続いた。

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