第8章 パフォーマンス

三人は黒いベントレーに乗り込んだ。車内の空気は重く、息が詰まるほどだ。

西野直人は助手席に座り、ルームミラー越しに後部座席の二つの影を追う。

神田健斗は背筋を正したまま、表情は淡々。まるで当事者ではなく、傍観者の顔。

若林星奈は反対側の窓にもたれ、神田健斗のほうも、そして直人のほうも見ようとしない。

綺麗な顔をした、魂の抜けたぬいぐるみ。狭い箱に無理やり押し込められたみたいに。

――俺が、こいつの男だ。

この女の感情は、俺のためだけに動くべきだろ。

なのに、どうして神田健斗が守る側の顔で隣に座っている。

車はやがて、西野家の別荘前で止まった。

神田健斗は降りず、横目で若林星奈へ言った。

「俺の言ったこと、忘れるな」

若林星奈は小さく頷き、ドアを押して外へ出る。

直人もすぐ降りた。黒いベントレーが一切の未練もなく切り返し、そのまま去っていくのを見送った瞬間、腹の底の火がさらに強くなる。

「入れ」

直人は乱暴に若林星奈の腕を掴み、引きずるように別荘へ引っ張り込んだ。

若林星奈は抵抗しない。

戻ると頷いた時点で理解していたのだ。ここは家じゃない。次の戦場だと。

別荘の中は眩しいほど明るい。パーティーの痕は片づけられ、使用人たちが俯いたまま床を拭いている。息をする音すら怖いのだろう。

リビングのソファには、山川心菜が柔らかなシルクのネグリジェ姿で座っていた。直人が若林星奈を連れて入ってきたのを見るなり、すっと立ち上がる。心配と隠しきれぬ怯えを、ちょうどいい分量で顔に貼りつけて。

「直人、おかえり……星奈、大丈夫? 雨、ひどかったでしょう。濡れなかった?」

寄ってきて手を伸ばす。

若林星奈は一歩ずらし、無表情のまま、その手を避けた。

空中で止まった心菜の指が小さく震え、目尻が赤く染まる。

「星奈……まだ私を怒ってるのね。でも、私、悪意なんて……」

若林星奈は見もしない。演技に付き合う気はない。今すぐ上へ――優斗のところへ行きたい。

心菜を迂回し、階段へ向かう。

すれ違った、その瞬間。

「きゃっ!」

甲高い悲鳴。

続けて、ガシャン! と重い音が響いた。

高そうな骨董の花瓶が心菜の前のテーブルから滑り落ち、磨き上げられた大理石の床で粉々に砕け散る。

心菜は怯えたように尻もちをつき、足首を押さえた。大粒の涙がぽろぽろ落ちる。

「足……痛い……」

泣きながら見上げる視線は、恐怖と委屈で満ちていた。

「直人……私、ただ星奈に説明したかっただけで……まさか、急に押されるなんて……」

矛先が一気に若林星奈へ向く。

直人の顔が、みるみる暗く沈んだ。

――ふざけるな。

他所の男のところから連れ戻したばかりなのに、俺の目の前で人に手を出す気か。

「若林星奈! また暴れるのか!」

手首が痛む。だが若林星奈の顔は、一ミリも動かない。

「どの目で、私が押したのを見たの?」

直人は言葉に詰まる。

確かに、見えていない。

「お前じゃないなら、心菜が自分で倒れたって言うのか。そんな理由があるか!」

「理由があるかどうか、本人に聞いたら? 西野直人、三年経っても頭は育たないのね。人を見る目だけ、さらに腐った」

「……っ」

「直人、責めないで……」心菜は涙声で、なおも火に油を注ぐ。「私が悪いの。怒らせちゃった……」

若林星奈は心菜へ視線を向けた。

「山川さん、芝居は終わり?」

心菜の泣き声がぴたりと止まり、信じられない顔になる。

若林星奈は掴まれていた手を静かに引き抜くと、一歩、また一歩。心菜の前まで歩いていき、見下ろした。

「私が戻る前なら、好きに演じればいい。でも今は違う。私は戻った」

「山川さん、忘れてるみたいね。三年前、私は西野直人と結婚した。だから法律上も、筋の上でも――この家の妻は私」

「部外者が、主人の家の物を壊して、私に擦り付ける気?」

「あなたに、その資格がある?」

その場が凍りついた。

心菜の顔から血の気が引く。紙みたいに白い。

直人の表情も、ひどく歪んだ。

結婚――それは直人の胸に刺さる棘だった。

祖父に押し切られて婚姻届を出しただけ。いずれ捨てられると思っていたのに、今は若林星奈の武器になっている。

「嘘よ!」心菜が声を荒げる。「直人は私と結婚するって言った!」

「そう。じゃあ聞けば?」若林星奈は淡々と返す。「いつ重婚罪を犯すつもり?」

もう二人を見ない。リビングを見回す。

「内装は三年前のまま。防犯カメラの位置も変わってない」

天井の隅を指し示す。

「西野直人、目が見えるなら自分で確認して。私が彼女に指一本触れたかどうか」

言い捨て、階段へ向かう。

直人は言い返せなかった。防犯カメラがあるのは分かっている。

ただ怒りに目が眩み、反射的に心菜の涙を信じただけだ。

若林星奈の背中を見て、心菜の腹の底が冷えた。

負けるわけにはいかない。

ここで終わるはずがない。

心菜は床からよろよろ起き上がり、直人に縋りつく。

「直人! わざとじゃないの……本当に、騙すつもりなんて……」

直人の声が冷たく落ちる。

「なら、なぜやった」

「……怖かったの!」心菜は涙を増やす。「さっき、彼女が上に行くのが見えた。屋根裏部屋のほうへ……! 子どもに何かしたらって。あんなところから出てきたばかりで、精神だって不安定で……もし、もし子どもを傷つけたら……私は止めたかっただけなのに……!」

子ども。

その三文字が、消えかけた怒りへ一気に火をくべた。

――そうだ。子どもだ。

裏切りの証拠。

こいつは戻るなり屋根裏へ向かった。

何をする気だ。

直人は心菜を突き放し、階段を駆け上がった。

「若林星奈!」

「その怒号は、別荘全体を震わせるほどに響き渡った。

若林星奈が二階の廊下に出たところだった。屋根裏へ続く人目につかない角へ向かう前に、背後から凄まじい力で引き戻される。

直人の目は血走り、冷たい壁へ叩きつけるように彼女を押さえ込んだ。腕が鉄の輪になり、喉元を塞ぐ。

たちまち、濃厚な窒息感が彼女の意識を奪おうとしていた

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