第589章

「動くな」

 坂田和也は彼女をぎゅっと抱きしめたまま言った。「小林絵里。今、抱きたい」

 小林絵里は盛大に目をひんむいた。だが、延々と登ってきたせいで、いまは抵抗する力もほとんど残っていない。頬を彼の胸に預け、山の外側に広がる景色を眺めていると、呼吸が少しずつ落ち着いていく。

 気づけば、耳元の鼓動がどんどん速くなっていた。胸腔を突き破って飛び出しそうなほどに。

 長いまつげが小さく震え、小林絵里は言う。

「坂田和也、心臓でも悪いの?」

 坂田和也の腕がさらに強く締まり、そして唐突にほどけた。

「小林絵里。キスしたい」

 小林絵里は反射的に押し返す。

「調子に乗らないで」

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