第1章

「パー!」

 蛮力で蹴り飛ばされたドアが、耳を裂くような爆音を立てて開いた。サイモンの大きな体が入口を塞ぐ。

「啪」

 薄い書類が乱暴に投げつけられ、私の掛け布団の上に落ちた。

「署名しろ」

 サイモンの声は氷みたいに冷たかった。有無を言わせないアルファの圧が、言葉の端々に滲む。

 私は白い紙に並ぶ黒い文字を見つめたまま、動けない。

「……どういう意味」

 口を開いた途端、自分の声が掠れすぎていて驚いた。

「ライラーの心臓は完全に終わってる。今夜はもたない」

 サイモンは見下ろすように私を射抜いた。氷青の瞳に、疑う余地はないと言わんばかりの光。

「移植が必要だ。家族で適合するのはおまえだけ。摘出が終わったら――医者が、おまえの胸にこの機械心臓を入れる」

「サイモン……正気なの?」

 私はシーツの端を握り潰し、へたりそうな背筋を無理やり伸ばした。

「無理に決まってる。今の私、ただの風邪だって耐えられないのに……見てよ、腕を上げるだけでもきつい。メスを入れたら、私が死ぬ!」

「もし、お姉さまがどうしても嫌だって言うなら……もう、いいの」

 か細い泣き声が、ふいに部屋に落ちた。ライラーが入ってきて、サイモンの腕に縋りつく。涙が、切れた糸のように頬を伝った。彼のスーツの裾を握る指は、白くなるほど強く。

「サイモン……私は平気」

 俯いたまま、震える声。聞き分けの良さと、可哀想な被害者の匂いを、寸分違わず混ぜて。

「お姉さまを責めないで……手術が怖くて、言い訳してるだけ。私、ひとりで死んでもいい。私のせいで、あなたたちがこんなふうになるのは嫌……」

 言い終えた途端、彼女は背中を折るように身を丸め、胸を押さえて悲鳴を上げた。そのまま後ろへ崩れ落ちる。

「ライラー!」

 サイモンの顔色が変わった。目に走ったのは、剥き出しの焦り。

 彼は彼女を抱きとめ、深く、怒り混じりに吼える。

「黙れ! 死ぬなんて言うな。おまえの親は五年前、俺の命を救った。だから誓ったんだ。必ず、おまえを守るって」

 だが、ライラーの肩越しに私へ向けられた視線は――刃そのものだった。さっきまで残っていた温度が、瞬き一つで消える。底なしの暴虐と、吐き気を催すほどの嫌悪だけが残った。

「まだ病人ごっこを続ける気か、ゼラ?」

 冷え切った嘲笑。言葉が胸を抉る。

「おまえは丈夫なんだよ。その顔色も、その震えも、薬で作ったんだろ。俺が気づかないとでも? 自分勝手で、俺がライラーに構うのが気に入らないだけだ。命を救うのを拒むためなら、どんな嘘でもつく。――心底、反吐が出る」

 胸の奥が、針でねじられるみたいに痛んだ。

「嘘じゃない……!」

 喉の奥から、掠れた叫びが漏れる。必死にベッドを掴んで立ち上がろうとした――けれど脚に力が入らず、身体は重く沈んで、またベッドに叩きつけられた。

「もういい」

 サイモンは完全に堪え切れた糸を切った。

 彼が放ったのは、機械の心臓だった。鈍い音を立てて私にぶつかり、冷たさが骨まで染みる。

「それは連盟の最高技術だ。供給圧は十分、走り回れる。おまえは死なない」

 巨体が覆いかぶさる。強烈な情報素が、逃げ場のない鉄壁になって、私の呼吸の余地を押し潰した。

「署名して手術台に乗れば、それで全部終わる」

 そして彼は、優しさの仮面を被るみたいに、私の顎を持ち上げた。いつもみたいに額へ口づける。

「ライラーが助かるなら。――約束してやる」

 声が少しだけ甘くなる。私が絶対に断れない餌を、狙い澄まして投げた。

「手術が終わったら、正式に迎える。名分もやる。それだけじゃない――おまえがずっと欲しがってた、子も」

 子。

 その言葉が雷みたいに頭蓋を割った。限界まで張り詰めていた何かが、ぷつりと切れる音がした。

 五年。私は惨めに彼の後ろを追い、ほんの少しの愛を乞い続けた。どんな手を使っても、彼に私を見てほしくて。

 けれど同じベッドに転がるたび、彼は私に避妊薬を飲ませた。私はこっそりベビーベッドまで買って、設計図を眺めては、いつか私たちに子ができる未来を何度も何度も夢見た。

 それを今、麻酔みたいな言葉にして、私の生きた心臓を奪おうとしている。

 私は彼の広い肩の向こう、今も腕の中に隠れているライラーを見た。

 サイモンから死角になる位置で、ライラーの表情はもう「弱者」じゃなかった。青白い顔に浮かんだのは、残忍で、誇示するような笑み。目を細め、屠殺を待つ獲物を見るみたいに私を見下ろす。

 胸が、ひゅっと縮む。

 ――だめ。署名なんかしない。殺されても、しない。

 ゆっくり視線を外し、私は腹部へ手を添えた。そこには、爪さえまだ揃わないほど小さな命がいる。あの時、隙をついて避妊薬をすり替えたことで得た命。

 こんな極限の脅しを受けたら、私は叫び散らして、呪って、狂うと思っていた。

 けれど本当の痛みが心臓を踏み潰した瞬間、自分の声は――死んだ水面みたいに静かだった。

「でも、サイモン」

 堪え切れなかった涙が、手の甲にぽとりと落ちて砕ける。

 私は血の気の失せた顔を上げ、長年愛したアルファを真正面から見つめた。

「狼魂のない心臓じゃ……」

 囁きみたいに弱いのに、すべてを賭けた静けさを孕む。

「私の子は、宿らない」

「それに、サイモン……私、狼毒に侵されてる。もう長くない……」

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